izumishのBody & Soul

~アータマばっかりでも、カーラダばっかりでも、ダ・メ・ヨ ね!~

張 宇氏による「気功概論」その4

2010-05-23 11:17:11 | 太極拳
気功と太極拳の関連についての講義録の続き。
2項目を一挙掲載!難しくなってきました!
ツボについては、あまり考えすぎるのは逆効果な面があると思うが、続く「あるようでないようで」は一番重要なポイント。言葉にとらわれず拘らず、身体で理解できる(感覚で分かる、というか)までには時間がかかるね~。
つまりは、近道はない。一つ一つ段階を踏んで練習するしかない、ということであるよ。 
今回は、話し言葉そのままです。

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ツボの開合ということ

 外気と内気の結合をする上で、ツボの開合が大きな問題になります。
 “気戸”、“中府”、というツボがあります。これらの穴を開合できなければなりません。肩を開く動作をよくしますが、その時にツボが開くということをイメージしなければ、ただ単に肩の運動で終わってしまいます。その時にうまくできれば、“気戸”、“中府”のツボの部分に特殊な感覚が起こってきます。気の出入りする感覚がすぐ起こってきます。
 “気戸”、あるいは“雲門”という名前がついているように、"門"であったり"戸"であったりするということは「出入りの口」ということです。ですからその開合、開け閉めがマスターできなければなりません。開合ができることによっていろいろなことができます。初期の段階では意識を用いて開合をやらなければなりませんが、熟練してくるとそれが自然に行われるようになります。それが自然にできる状態になれば、これは“神”~先に言った段階の一番最後に関わる問題になってきます。

 “開”の効用として大きいものは、身体に溜まった不要な気、悪い気を排泄することができるということです。
 ただ座って意守をして気を増強させると言っても、悪い気を排泄しない状況ではどういう気を凝縮することになるんでしょうか?悪い気を身体に残したまま気を養っても、それは身体に良くないという問題になります。
 
 開合の“合”は、実際には後ろのツボを、今度は開けていくことになります。
 前から見ると合わせていますが、後ろに“風門”、というツボがあり(気功でいう胸椎間)、そのツボを開けることができなければなりません。そのことを意識するかしないかで、身体の感覚で非常に大きな違いがあります。まず“易”を鍛え、外気と混合させて次に内気の問題に入ってきます。
 ツボの開合で大事なことは、“百会穴”とか“湧泉”とか“命門”というツボの開合ですが、それは開けようと思ってもなかなか簡単に開くものではありません。だんだん練習が熟練するに従って自然に起こるようになります。ですから、意識的に動作をもって開けるということは、今は考えなくてもよろしい。外気を鍛え、自然の気の結合を考え、ツボの開合を考えて、その後に初めて、内気を鍛えるという段階に入ります。

意識は「あるようでないようで」に

 内気の問題には、外形、意識の他に、今度は呼吸の問題が入ってきます。
 呼吸では、大体三つの主な方法があります。
 ひとつは“自然腹式呼吸”といって、息を吸う時に腹が膨れ、息を吐く時に腹がへっこむやり方です。この時に重要なのは、特に息を吐き出すときです。吸気の時にはやりませんが、呼気の時にある臓器を考えたりあるいはある経絡上のツボを考えることによって、気がそこの臓器、あるいは経絡上のツボに作用するという感覚があります。この方法によって経絡を疎通させ、気をもって臓器を按摩するということがあります。経絡がそのように疎通がうまくできてから初めて“意守丹田”、意を体のある部分に集中するということを行います。
 その方法は、大きく二つに分けることができます。ひとつは、身体の上の部分から入ります。もうひとつは身体の下の部分から入ります。
 私が提唱している方法は、まず最初は上部に意守し、次に段々下に意守していきます。どうしてかというと、人の気は往々にして上部の気が強くて下の気が弱い。だからまず先に下から意守すると長い間なんの反応も起こらないということがあります。ですから、まず上に意守して、その反応を今度は下に伝えるという方法です。

 その「意守?意識を守る」という問題ですが、そこで非常に重要になてくるのが意念の強さで、重すぎてはダメだということです。
 「あるようでないようで」という、微妙な感覚が意守の上で大事になってきます。上のある部分、下のある部分に意守をするわけですが、その時に、「あるようでないようで」という中間の状況です。

 これを太極の理論に戻してみると、完全に陰でもなく完全に陽でもない。だから、完全にある状態ではなく、完全にない状態でもない。「あるようでないようで」中間の状態です。つまり、陰と陽が合わさって太極状態、意識の上でもそういう状態が必要だということです。
 そこでまたひとつ重要な問題は、「あるようでないようで」という意識の状態の時に熱感があったり、冷感があったり、光の感覚があったりしますが、それにとらわれてしまうと、今度はそのいろいろな感覚は消えてしまいます。ですから、熱感、冷感、光の感覚と、いろいろなことが起こってきても、「あるようでないようで」という意識状態が保たれないと、現象にとらわれてしまってはその感覚は消えてしまいます。

 もうひとつ大きな問題は、意守によって気が充実され、その気が動き出した時には、今度はその気が前に立って意識はあとにつく、ということです。
 一番最初の段階では、意識をもって気を誘導しましたが、気が自然に動き出した時には、ある場合は経絡に沿って自然に動きだします。その時に意識をもって誘導するのではなく、気が先に、意識が後についていくという状態の転換があります。
(昭和62年5月28日~30日、北京・燕翔飯店での講習記録(横尾さんの筆記による))

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