一、 内気と意
上述のごとく、気は意の指揮を受けるのであるが、この“気“とは、一般に言われる肺で呼吸する空気のことではなく、一種の“内気“である。
この気は中医学理論で“元気”とか“正気”とか呼ばれ、経絡の中を通る気で“先天の気”等であり、母体にいる時より備わっている天性のものと認められている。
鍼灸と気功法では、今日に至るまでこの説を唱えている。武術家たちはこの気のことを“中気”、“内気”、“内勁”等と呼ぶ。鍛錬が至ってこの気が出て来、これを掌握することがつまり“功夫は申し分ない”とみなされるのである。
結局、古来より中国医学理論に拘らず、武術界でも宗教界でも、この気の存在は認められ、各種実践経験でもこのような気は確かに存在すると証明されている。
しかし、近代科学ではこのような気の実質は何なのかという調査では、未だに明らかにされていない。中国医学経絡学説を研究する国内外の学者と、この気の説に対しては合致するところがない。
たとえば、ある人はこの気とは神経のことだといい、ある人は静物の電気だと言う。またある人は人体の中にある特殊な分泌物だといい、またある人は人体の特殊功能系統である等々、様々なことをいい、今一歩の探索が待たれる。
但し、人体の生理現象は整合性のもとで、意が動いて、神経、生物電気等は動かない、とはいえない。
それ故、我々は拳論の中で言っている気を説明する場合、とりあえず、神経とか、生物の電気とか、血液中の酸素によって構成された一種の総合物であるということにし、また、人体の未解明の機能であるということで、目的はまず先輩の理論を継承し、以て我々が更に進めて発掘したいと思う。
太極拳を練習するとき、意識体操の如く、始終意を使わなければならない。
なぜなら、肢体の動作は意識を外に表現しているに過ぎないからである。このような意識体操は、内にあっては内気の動きの過程が隠されており、外には神態と外気の動きの表現が現れている。それ故、内気は内から外へ発することができ、また、外から内へ集めることができる。
太極拳の練習には“気をもって身を運ぶ”ことが必要だとは言え、練拳の時、気が体内をいかに運行しているかということだけに意識を集中したり、動作中、それだけに意を注ぐべきではない。でなければ神態は滞ってしまい、気はスムーズに流れない。しかも気勢は散漫になり、意と気もその害を被るのである。
ゆえに、拳論のいう“意は精神にあり、気にはない。気にあれば滞る”ということになる。このため、練拳のときは、外部の精神の動作表現を特に重視する。外部の神態はつまり外の表現によって内在する心意をはっきり表わしているからである。内意と外神は絶対に分離できないもので、内意が少しでも緩めば、すぐに外神は散漫になる。この点を練拳において必ず心得なければならない。
陳式太極拳は、動作に柔あり剛あり、円あり方あり、慢あり快あり、開があって合がある。我々はこれが人体の生理規律であると認めている。一般に知られているように、人体が動けば生物電位は高くなり、体が静まれば低くなる。また、太極拳の動作の剛柔、開合、快慢など、まさにその電位の昇降を促すものである。
電位が高くなると血液の循環は速くなり、圧力が低くなって酸素と蛋白も急速に離反し、人は充実感を得るのである。正常な状況のもとで神経は長時間同じような興奮状態を保つことはできない。それゆえ、生物電気は普通、起伏状を呈していて、太極拳の動作も剛柔、快慢、方円等、滔々と絶え間ない起伏をし、まさにこの規律に合うのである。
以下続く
上述のごとく、気は意の指揮を受けるのであるが、この“気“とは、一般に言われる肺で呼吸する空気のことではなく、一種の“内気“である。
この気は中医学理論で“元気”とか“正気”とか呼ばれ、経絡の中を通る気で“先天の気”等であり、母体にいる時より備わっている天性のものと認められている。
鍼灸と気功法では、今日に至るまでこの説を唱えている。武術家たちはこの気のことを“中気”、“内気”、“内勁”等と呼ぶ。鍛錬が至ってこの気が出て来、これを掌握することがつまり“功夫は申し分ない”とみなされるのである。
結局、古来より中国医学理論に拘らず、武術界でも宗教界でも、この気の存在は認められ、各種実践経験でもこのような気は確かに存在すると証明されている。
しかし、近代科学ではこのような気の実質は何なのかという調査では、未だに明らかにされていない。中国医学経絡学説を研究する国内外の学者と、この気の説に対しては合致するところがない。
たとえば、ある人はこの気とは神経のことだといい、ある人は静物の電気だと言う。またある人は人体の中にある特殊な分泌物だといい、またある人は人体の特殊功能系統である等々、様々なことをいい、今一歩の探索が待たれる。
但し、人体の生理現象は整合性のもとで、意が動いて、神経、生物電気等は動かない、とはいえない。
それ故、我々は拳論の中で言っている気を説明する場合、とりあえず、神経とか、生物の電気とか、血液中の酸素によって構成された一種の総合物であるということにし、また、人体の未解明の機能であるということで、目的はまず先輩の理論を継承し、以て我々が更に進めて発掘したいと思う。
太極拳を練習するとき、意識体操の如く、始終意を使わなければならない。
なぜなら、肢体の動作は意識を外に表現しているに過ぎないからである。このような意識体操は、内にあっては内気の動きの過程が隠されており、外には神態と外気の動きの表現が現れている。それ故、内気は内から外へ発することができ、また、外から内へ集めることができる。
太極拳の練習には“気をもって身を運ぶ”ことが必要だとは言え、練拳の時、気が体内をいかに運行しているかということだけに意識を集中したり、動作中、それだけに意を注ぐべきではない。でなければ神態は滞ってしまい、気はスムーズに流れない。しかも気勢は散漫になり、意と気もその害を被るのである。
ゆえに、拳論のいう“意は精神にあり、気にはない。気にあれば滞る”ということになる。このため、練拳のときは、外部の精神の動作表現を特に重視する。外部の神態はつまり外の表現によって内在する心意をはっきり表わしているからである。内意と外神は絶対に分離できないもので、内意が少しでも緩めば、すぐに外神は散漫になる。この点を練拳において必ず心得なければならない。
陳式太極拳は、動作に柔あり剛あり、円あり方あり、慢あり快あり、開があって合がある。我々はこれが人体の生理規律であると認めている。一般に知られているように、人体が動けば生物電位は高くなり、体が静まれば低くなる。また、太極拳の動作の剛柔、開合、快慢など、まさにその電位の昇降を促すものである。
電位が高くなると血液の循環は速くなり、圧力が低くなって酸素と蛋白も急速に離反し、人は充実感を得るのである。正常な状況のもとで神経は長時間同じような興奮状態を保つことはできない。それゆえ、生物電気は普通、起伏状を呈していて、太極拳の動作も剛柔、快慢、方円等、滔々と絶え間ない起伏をし、まさにこの規律に合うのである。
以下続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます