犬神スケキヨ~さざれ石

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沖縄の少女

2015-02-19 21:55:29 | 草莽崛起

発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ
通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県
知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ
之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シ
テハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県
民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲
爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支
ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノ□□ニ中風雨ニ曝サレツツ乏
シキ生活ニ甘ンジアリタリ而モ若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦
烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身斬込隊スラ申出ルモノアリ所詮敵来リ
ナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セ
ラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ
助ケテ□□真面目ニシテ一時ノ感情ニ駆ラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ
指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ是ヲ要ス
ルニ陸海軍□□沖縄ニ進駐以来終始一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セ
ラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只管日本人ト
シテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ
本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン糧食六月一杯
ヲ支フルノミナリト謂フ沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

(□は不明部分)

これは沖縄司令部大田実中将最後の電文です。
皆さん御存知ですね。

先の大戦において沖縄と本土の温度差は今も激しく、まるで腫れ物に触るような事になっています。
沖縄県民には「本土防衛の捨て石にされた」等の主張もあります。

確かに史上最も凄惨な戦場となってしまった事に間違いありません。
しかし沖縄県民が主張するような「軍から強制的に」という様なものはこの電文からは読み取れません。

確かに軍部の判断の遅れや誤りで県民の疎開などがままならなくなり多大な犠牲を出しました。しかし、この電文では戦える者は志願をし、戦えぬ女子供年寄りは戦闘の邪魔にならぬようにと県内を移動したり更に食料などを供与したりしています。

その献身さ故に大田実中将をして
沖縄県民斯ク戦ヘリ…
後世格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
と、大本営に嘆願しているのです。
またこの電文では軍部の失策を非難もしています。言論の自由がなかった!と言うアホの左翼の論旨とは間逆です。

忘れられた少女達

この沖縄戦にて沢山の日本人達が戦いました。
それは日本全国、北海道から九州それに沖縄の人々が国を守る為に戦いました。
それは僅か70年前、我々の先達の方々です。

それは沖縄戦の前に行われた硫黄島を上回る規模の戦闘になりました。

米軍は艦砲射撃や爆撃、更には火炎放射器を用いて徹底的に沖縄を叩きました。
先達の抵抗も徹底的なものでした。

この戦闘で腕が吹き飛び、頭が割れ、はらわたが飛び出た人々…
その人々を献身的に看護していたのが当時まだ15歳から17歳の少女達でした。
まだ恋すら知らなかったかもわからない少女達は、それは献身的に自らの命すら危ない状況にもかかわらず看護しました。

それは学徒看護隊と呼ばれていました。
「ひめゆりの塔」は皆さん御存知ですね?
これはひめゆり学徒看護隊と呼ばれ、県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の学生達です。当時この二つは沖縄ではエリート女学校でした。だから後世小説や映画にもなり美談として語られもしているのです。
だから我々も名前だけは知っています。
この少女達を慰霊する為に建てられたのが「ひめゆりの塔」です。
この場所にはこの学徒看護隊が自決した壕あり今や見事に観光地になっています。

全部で九つ

しかし、学徒看護隊はひめゆり部隊だけではありません。学徒看護隊は全部で九つあったのです。ひめゆり部隊は九つある内の一つで他に八つ学徒看護隊がありました。
沖縄県民すら知らなかった少女達が他にも居たのです。すっかり忘れ去られた少女達がいたのです。県立第三高女や私立の女学校、農業専門女学校の学徒看護隊等です。
勿論、自決壕もあります。しかし、すっかり忘れ去られてしまい荒れ果ててしまった場所もあります。

白梅

沖縄県立第二高等女学校の生徒で作られたのが「白梅学徒看護隊」です。
自分は全くしりませんでした。
青山繁晴氏の話を聞くまでは全くしりませんでした。我々後世の為に命を捧げて頂いたのに。

この白梅学徒看護隊にも白梅の塔があります。
僅かに生き残った少女は今や80歳を超えています。この白梅の自決壕、今はだいぶ知られるようになり随分キレイになっているそうです。
ひめゆりの塔から僅かな距離の所にあります。

小高い丘の様な所にあり、以前は山の様に見える森みたいな感じだったそうです。
昔はもう忘れ去られた場所でしたから小さな石積みがあり、その後ろに錆びた鉄の蓋がありました。
その鉄の蓋には鍵など無く、蓋を開けることができました。
その蓋を開けると真っ白な遺骨があります。
例えば顎の骨や大腿骨、腕や腰の辺りの骨が納められているのです。

それらの遺骨は直ぐ側の自決壕に散らばっていた少女の骨を集めたものです。
しかしこの場所は人々から忘れ去られたところ、訪れるのは僅かに知る人だけでした。
しかし、荒れ果てた少女達の自決壕はこの白梅だけではありません。

そして僅かに生き残った方が証言されています。

本当は…

まだ15歳から17歳の少女達。昨日まで勉強をし裁縫などをしていました。
しかしある日突然に千切れた兵隊の足を渡され「これを棄ててきなさい」と言われるのです。
「おい!俺の足を!俺の足を!」と言う負傷兵の、それは血がドバッと吹き出るその足を持って銃弾が雨霰の如く飛び交う中を走って棄てに行くのです。

戦争が終わり自決壕の中に亡くなった同級生がいる、そこに居るとわかっていても近付けずに何年も経ってしまいました。
その僅かな生き残りの方々も早く戦争を忘れ幸せな生活を送りたかった。
決してこの方々を責めることは出来ませね。
そんな地獄絵の様な光景を目の当たりに体験すれば早く忘れたい…人ならばそう思うでしょうから。

それから数年経ち生き残りの方々が話し合い自決壕に入る事になりました。
もう体は溶けてしまい骨だけが散らばっています。それでもそこに残された僅かな文房具や遺骨の欠片から「これは何々ちゃん、これは何々さんね…」とわかったそうです。

それから遺骨を、遺族に届けようと親御さんに連絡を取り、親御さんが死んでいたりしたら親戚やお身内に連絡を取り自決壕に来て頂いたりしたそうです。

だから石積みに

しかし、連絡の取れた親御さんでも「うちの娘はこんなところで殺されたりしない!横のさとうきび畑を抜けて逃げ伸び結婚もしてヤンバル辺りで幸せに暮らしている!」と言う人。
更には「うちの子は泳ぎが得意だから海を泳いで石垣島か波照間島辺りに逃げ伸びたはずだ」とおっしゃる方もいて、そう言う方は皆遺骨を目の前にしても「うちの子じゃない!」と遺骨の受け取りを拒否されます。

そして仕方なく自分達で作った石積みに、小さい石積みに押し込むようにご遺骨を納め、泣きながら「ごめんね、ごめんね」とその小さいな遺骨を納めました。
その時に鉄の蓋をしましたが鍵などつけませんでした。
その理由は、やがて日が暮れ夜になれば人目に付かず我が娘の死を頑なに信じずいたお父さん達、お母さん達が本当は娘の死をわかっているのにそれでも信じられないご両親が来て娘の名を呼びながら遺骨を撫でられ愛おしく触る。
そう考えたから蓋には鍵など付けませんでした。

触れているのです

我々は戦後この様なことを教えられませんでした、むしろ教えては都合が悪いかの様に。

この少女達も、まだ恋すら知らなかった少女達も後世我々の為に散華されたのです。

そしてこの白梅の自決壕や、靖国神社や日本全国にある護国神社に祀らている御英霊の方々は我々が哀悼の誠を捧げに参るとそこから魂が出てこられて例えば我々の顔や体、手や足に触られ「俺たち、私たちが守った日本人」が今もこうして日々生きていることを知られて初めて安寧の道に行かれるのです。

我々現代日本人はこの白梅の少女達や他の御英霊の御奉仕で今生きているのです。