「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽談義~「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」~

2007年06月24日 | 音楽談義

6月9日の湯布院でのコンサートから2週間あまり、目の前で実演を聴いた余韻がまだ耳に残っている。もちろん演奏にではなくて生の音に。

今更という気もするが、音の瑞々しさ、あのフワリと音が空気中を漂う感覚などはどうしても我が家のオーディオ装置では再現不可能のような気がする。

電気回路を通じた音ではしょせん生の音は出せないと割り切ってしまうと身も蓋もないが、頭の片隅にこの考えを忍ばせておくとオーディオに対する接し方も考え方にも何か見えてくるものがあるようにも思う。

さて、このコンサートで魔笛の話が縁で偶然知り合ったS県のKさんとは、この日以降、ときどきメールを通じて情報交換をしているが、そのKさんから是非読んで欲しいと紹介されたのが
「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」(1996年9月20日、東京創元社刊)である。

約10年前の発刊なので絶版かも知れないと思い、まず図書館に行って検索してみたところ
在庫とのうれしい表示で所定の書棚を探し当て借りることができた。

この本の著者「植村 攻」氏は1950年に富士銀行に入行し1950年代後半にロンドン支店に勤務されその機会を利用して当時のヨーロッパ各地の演奏会を聴き歩かれ、その貴重な体験を本にまとめられたものである。

1950年代といえば、いろんな意味でクラシックの黄金時代といってもよいくらいで幾多の名指揮者が綺羅星のように輩出され、活躍した時期である。フルトヴェングラー、ワルター、クレンペラーなど。こんな巨匠たちの生の演奏会を実際に聴かれたという得がたい体験は当時の日本人としてはごく一握りの恵まれた方であろう。

それに、音楽の専門家ではなくどちらかといえば一般の音楽愛好家の視点から書かれているのが親しみやくて分りやすい。一気呵成に読んでしまった。

本書の構成は、
第1章 ザルツブルク音楽祭(1956年)
第2章 バイロイト音楽祭(1958年)
第3章 指揮の巨匠たち
第4章 ピアノの巨匠たち
第5章 弦の巨匠たち
第6章 室内楽~見事なアンサンブル~
第7章 素顔の名歌手たち
第8章 ブルーノ・ワルターのこと

貴重な体験を素直に文章にされた内容ももちろんいいが、途中ところどころ挿入されている写真がすごい。特に156頁に5人の指揮者が一同に並んで写っている。その指揮者たちとは、何とワルター、トスカニーニ、E・クライバー、クレンペラー、フルトヴェングラーの巨匠たちでまるで気が遠くなりそうなメンバー!

本書で一番興味があったのはやはりザルツブルク音楽祭での「魔笛」の演目。
1956年8月2日
指揮者   ゲオルグ・ショルティ
ザラストロ  ゴットロープ・フリック
夜の女王  エリカ・ケート
タミーノ   アントン・デルモータ
パミーナ   エリザベート・グリュンマー
パパゲーノ ワルター・ベリー

この配役なら、ヨーロッパは無理としても日本公演があればどこにでも必ず駆けつけたくなるような超一流の布陣である。特にタミーノ役の
デルモータとパパゲーノ役のベリーの肉声を一度は聴いてみたかった。デルモータは1950年のカラヤン盤、ベリーはベーム、クレンペラー、サバリッシュ盤に出演しているが、じぶんの視聴レポートでもこの二人は文句なく特上扱いのA+である。

この演奏はCD化されていないので、実演の模様は当日の聴衆の頭の中だけにしか痕跡をとどめていないが、一過性の芸術が音楽の身上とはいえ実に惜しい気がする。

著者の魔笛に対するアプローチも全面的に共感できるものだった。引用すると、

「魔笛」というオペラは、単にきれいだとか面白いとかいうことを超えて、なにかしら我々の心を浄化し天上的な高みにまで導いていく力を持っているのだということを、この夜、私はしみじみと考えていた。(同書64頁)

また、第8章では指揮者ブルーノ・ワルターについてわざわざ1章を丸ごと割いておられる。入院中のワルターに向けて著書「主題と変奏」の翻訳依頼の手紙を出され、本人の署名入りの返事がきた話も興味深い。

最後に名音楽家であり一大教養人であったワルターの現代文明に対する深い憂慮のことばを紹介しておこう。約50年前の考察だが現代にも十分通じる話である。

今や芸術に対し、社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では、芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほんど存在しないように思われる。本来、芸術作品が持っている、人の心を動かし魂を高揚させるという働きに代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。
これらは、「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。(同書288頁)
 
                    

                   



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