10月29日(土)に亡き母の四十九日の法要を無事終えた。
通夜、告別式、初七日、1週間ごとのお坊さんによる読経、そして四十九日の法要のときに併せて墓所での納骨式を行ったが、奇しくも10月29日は母が生きていれば95歳の誕生日だった。
悲しみはまだまだ癒える状況ではないが、ようやく一区切りというところ。
さて、これまで他所の葬儀には数知れず接してきたが、いざ自分が一連の儀式の当事者として執り行ってみると立場が変わっていろいろ考えさせられることが多かった。
もちろん身近な人を失った遺族の悲しみが現実に肌身として感じられるようになったことが一番大きく、これからはゆめゆめ軽い気持ちで接しないようにと切実感を持ったが、その一環として儀式への対応の問題がまず挙げられる。
これまで友人、知人、仕事がらみの関係者、ご近所などの葬儀については一般的には「通夜と告別式のどちらかひとつに出席すればいい」と、聞かされ実際にそのとおりにしてきたわけだが、これは明らかに誤りだった。
この年齢になって気づくようでは今さら遅きに失した感があるが、正しくは両方お参りすることではじめて「心のこもった対応」と言えるべきもの。
通夜も告別式も両方ともに「悲しみを共有できる人にできるだけたくさん集まっていただき故人を見送ってやりたい」というのが遺族の偽らざる心情である。
兄も自分も現役を退いた状況のもと、仕事がらみの関係者が寂しくなる中、頭数がどうなることやらと心配したが、幸い今回は家内の勤務先やご近所の方々が多数、当たり前のように両方に出席していただき実にありがたかった。
弔電なんかはどうでもいい存在で、実際に出席して顔を見せてくれることが故人への一番の供養であるとつくづく思った。
もう一つは、葬儀の日取りをいざとなると友人、知人のどの範囲まで連絡していいものか迷うこと。
やはり交通費はかかるし”手ぶら”では来づらいだろうから、相手を慮(おもんばか)ってついつい遠慮してしまうのが人情というものだろう。
実を言うと今回も大いに迷ったが、2名の友人からは以前、「お母さんの具合が悪いようだから、万一何かあったときは遠慮せずに連絡してくれよな」と言われていたので非常に気が楽だった。
「ほんとうに親しいと思う方でご高齢の親がいる場合」には、日頃からそういう趣旨のことを相手に耳打ちしておくといいようで、これも一つの知恵だろう。
「冠婚葬祭」といえば聞き及んでいる方も多いと思うが、広辞苑によると「冠」は元服のこと(今でいえば成人式)、「婚」は婚礼のこと、「葬」は葬儀のこと、「祭」は祖先の祭祀のこととある。
人生の主要なイベントを表したものだが、このうち比重が一番重いのは「葬」だと思うが、この対応によって日頃のお付き合いの距離感が分かったりするのも今回の新発見だった。
たとえばご近所で日ごろあまり親しいお付き合いをしていないと思っていた方がわざわざ(通夜と告別式に)出席してくれたり、逆に懇意にしていると思っていた方が知らん顔をしていたりと様々である。
「とかく、この世は難しい」のである。