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ジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

鑑真の生き方に学ぶ

2012-06-22 09:26:36 | 日記
奈良時代に鑑真が遣唐使船で日本に来たということは歴史の教科書では有名ですが、先日、鑑真について詳しく書かれた本に出会い、非常に感銘を受けましたので、紹介させて頂きたいと思います。

鑑真は中国北部あたりでは律僧の第一人者で、人々に「授戒の大師」として仰がれていた。

その鑑真のもとに、日本から二人の僧がやってきた。

当時の日本は奈良時代を迎え、貴族政治による中央集権的な国家体制が整いつつあり、天平文化が栄えていた。
その一方で庶民や農民は、重税や労役の負担に加えて、日照りや地震などの災害、天然痘の流行など、苦しい生活を強いられていた。
仏教は国家の手厚い保護を受けており、僧は重税や労役の負担がなかったため、そうした苦しみから逃れようとして、庶民や農民らは先に争うように出家した。
僧の中には、政治に介入し、私利私欲に走ったり、権力争いをする者も出てきた。そうして修行も学問もおろそかにした僧が増え、仏教界は腐敗しつつあった。

この状況を嘆いた舎人親王は、仏教の戒律を授ける資格を持つ僧(授戒師)を唐から招き、日本の仏教界に戒律の制度を広め、清めようとした。
その命を授けて第九次遣唐使船で唐へ渡ったのが、栄叡と普照という二人の僧だった。

だが、彼らが唐に到着した後、次の遣唐使船の派遣が中止となってしまった。唐は国法でわたくしに出国することは認めていなかったため、遣唐使船が来なければ授戒師が日本に渡るのも、国法を犯すことになってしまう。
また、当時の船は櫓をこいで走らせる大きな帆柱の船で、航海技術も未発達だったため、唐に着くのにも三カ月かかった。だが、それでもまだいいほうで、多くの場合、船が難破して無事に海を渡るのさえ困難だった。

そうした危険をおかしてまでも日本に渡ろうとしてくれる僧はいなかった。

栄叡と普照が唐に渡ってから九年の歳月が過ぎた頃、ようやく彼らは鑑真に出会う。

鑑真は揚州大明寺で律学を講義しており、多くの弟子をかかえていた。
そこで栄叡と普照の二人は、「日本に戒律を伝えるために、ご高弟を遣わしてください」と鑑真にお願いした。
鑑真は弟子を集めて、「誰か日本に渡ってくれる人はいないか」と呼びかけてみたが、これまで二人が会ってきた僧たちと同様、誰一人として名乗り上げる者はおらず、一座は静まりかえった。
僧たちの声を代表するように、弟子の祥彦が「日本は大変遠く、渡航しても命が助かるのは難しいと思います。百人に一人もたどり着く人はいません」と言った。
そこに鑑真がこう宣言した。
「みなが行かないならば、私が行きます」
その鑑真の言葉に、祥彦が「鑑真が行かれるなら、私もお供します」と続き、二十一人の僧が同じく鑑真に随行したいと願い出た。

第一回は、仲間割れによって失敗に終わる。
743年四月、準備は順調に進み、いざ出発となった時のことだった。一行のうち、弟子の道抗と如海の仲が悪くなり、如海が役所に行って、道抗が海賊と通謀して行動を起こす計画をしていると、虚偽の密告をしてしまったのだ。それによって、道抗だけでなく栄叡・普照も捕縛・投獄されてしまい、造った船も没収されてしまった。

八月に自由の身になった栄叡・普照の二人は、再度、鑑真に日本への渡航を懇願に行く。鑑真はこれに応えて銅銭80貫を出し、船や物資などを買い揃えた。
当時、浙江の沿岸地方は海賊が横行しており、被害も少なくなく、海路の運行は、政府の船さえも停まっていた。そうした海賊に襲われる危険のある中も、鑑真たちはまた日本へ渡ろうとしたのだ。

第二回は、激しい波浪によって打ち砕かれる。
同年十二月、鑑真たちの船は揚子江を東へ下り、揚子江の南岸の江口近くで激しい波浪に襲われた。それにより、船が破損する。
船を修理して江口を出、ある島で一カ月ほど風が吹くのを待った後、また別の島へ向かったが、激しい風で浪が高く、船で暗礁に乗り上げそうになってしまう。ようやく険しい岸を離れたが、船は岩の上に落ちて破損し、一行は岸に打ち上げられた。食糧は底を尽き、一行は飢えと渇きに苦しみながら、ただ助けを待つしかなかった。
五日目に海上警備の役人の船が見回りに来て、一行はようやく救助され、明州の阿育王寺で休養することになった。

第三回は、計画とも言えないまま終わってしまう。鑑真が阿育王寺に滞在していることを知った諸州の僧たちは、鑑真を招いて講律や授戒をお願いした。その招きに応じ、鑑真は各地に赴き、巡遊、講律、授戒を行った。
そうして鑑真は阿育王寺に帰ってきたのだが、鑑真たちが日本へ密航しようとしていると知った越州の僧が、栄叡が鑑真をそそのかして日本に連れ去ろうとしていると役所に訴えてしまった。
栄叡はまた拘禁され、その後、解放された。

第四回は、弟子の密告によって阻まれた。
鑑真は、南方の福州から渡航しようと考え、弟子を福州に派遣し、船や物資を調達させた。そうして鑑真一行は福州を目指した。
だが、冬に発った旅のため、一行は険しい吹雪に襲われた。
ようやく福州手前の福建省に着いたが、そこで官憲に捕まってしまった。
揚州に残っていた弟子の霊祐が、巨匠の身を心配するあまり、引きとめようとして密航計画を密告してしまったのだった。
鑑真一行は、揚州の竜興寺へ護送されて役人の監視下に置かれ、栄叡と普照は投獄された。(一年後に解放される)。

そうした妨害が続いても、鑑真の意志は決して屈することはなかった。
748年、栄叡・普照の二人は五回目の密航を鑑真に懇願した。三人は改めて策を練り、実行に移すことにした。この時、鑑真は61歳になっていた。

だが、第五回も、漂流によってむなしく失敗に終わった。
揚州を出航して揚子江を下ったが、なかなか好風が吹かず、大海に出られない。
ようやく大海に出たら、強い風と高い浪に襲われ、しかも黒潮海流に乗って南方に流されていってしまった。乗員は船酔いや熱病で弱り、蜃気楼にも悩まされ、何日も漂流して、やっとの思いでたどり着いたのは、日本ではなく海南島だった。

そこから一行は揚州に戻ることにした。この揚州への旅路は、鑑真にとって悲しみの連続だった。

端州の竜興寺に着いたとき、栄叡はその志を遂げられず、日本の地を再び踏むことのないまま病死した。鑑真は「哀働悲切」したという。

善照は揚州の官憲に再び捕まらないよう、一行と途中で別れ、明州の阿育王寺に向かった。別れの際、鑑真は善照の手を取って悲涙した。

この頃から鑑真の目が悪くなり始めていた。
そして、ついには失明してしまった。
原因は、栄叡の死を悲しんだあまりとも、旅の疲れや度重なる難事のためとも、老人性白内障とも言われている。

五回目の失敗から五年後ー第六回にして、ようやく日本への渡航が果たされる。

750年に日本政府は17年ぶりに遣唐使派遣を決め、752年、遣唐使船が長安に到着した。
遣唐使一行は唐の玄宗皇帝に、鑑真と数名の僧を日本に招きたいと申し出たが、皇帝からの許しは下りなかった。そのため、遣唐使の大使らは鑑真に密航してくれるよう依頼する。鑑真はその申し出承諾し、揚州を脱出して日本の船に乗り込んだ。
753年に沖縄、754年に平城京に到着した。
鑑真が日本渡航を決意してから12年、普照が日本を発ってから21年目のことだった。
その間に36人の同志が亡くなり、200人余りが脱落して去っていった。
最初から志同じくして無事日本に到着できたのは、鑑真と弟子の思託、善照の三人だけだった。

その後、鑑真は朝廷より授戒伝律のにんを任され、聖武上皇、光明皇后、孝謙天皇をはじめ、430余人が鑑真を師として戒を受けた。
755年、東大寺に戒壇院が完成し、三師七証による正式な受戒を経たものでなければ政府公認の僧となることができなくなった。これによって、ようやく鑑真・栄叡・普照の目的が果たされたのだ。なお、この東大寺では、後に最澄や空海も、鑑真の弟子から戒を授かる。
758年、鑑真は朝廷より最高の称号「大和上」を賜り、その翌年、唐招提寺を開き、戒律を学ぶ人たちの修行所とした。

鑑真は、こうして日本の仏教界を清め、多くの名僧を育てた。
また、「法華玄義」「摩訶止観」「四教儀」など天台大師智の著書を多く持って来て、日本に最も早く天台の教義を紹介しており、仏教の発展に大きく貢献した。

763年、鑑真は自ら死期が訪れたことを悟ると、西を向いて足を組んで座り、静かにその76歳の生涯を終えた。

命をかけて、6回にわたり、日本渡航を企てていた、鑑真の熱意に非常に感動しました。歴史の背景には人々の情熱によって創られているおり、歴史を築いて下さった偉人たちに感謝をしなければならないと思いました。私も鑑真のように、志に向けて、何があってもあきらめずに新しい歴史を築いてまいりたいと思います。(横)


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子供の成長

2012-06-21 09:25:51 | 日記
私は3人の子供のパパである。
最近、仕事から帰宅し、よく感じる事がある。

それは、『 子供の成長は早い 』という事。
子を持つ親ならば、当たり前のように感じる事ができ、私も今まで、何回も感じてきた事ではあるが、最近よく感じる。

この感覚は今に始まったことではなく、何かのタイミングでそう実感するのだろう。

『 子供の発した言葉 』 『 子供の態度 』 『 子供の行動 』 『 子供の成長 』などで、今までと異なる印象を受けると、そう感じるのだと思う。


毎日(平日)、22:00以降に帰宅する事が多い。帰宅すると子供たちは布団の中で熟睡中。
うちでは、子供たちは21時までには、寝かせるようにしている。

子供の寝相は、良いほうだとは言えない。はっきり言って悪い(笑)「あんたに似たのよ」とよく嫁にいわれる。

朝起きてみると、とんでもない方向で寝てたり、子供同士絡み合って寝てたりもする。
時には、寝室とは違う、別の部屋で寝てたりもする。
私も嫁も子供と一緒に寝ているが、子供のパンチ・キック・頭突きで起こされるのも日常茶飯事。

そんな状況の中でも帰宅し、子供の寝姿を見ると、昔はこんなに小さかったのに、いつの間にこんなに大きくなりやがって!!と感じるのである。

落ち着いた状況下で、気持ちにゆとりがある場合に、感じる事ができるのだと思う。
それが私の場合、子供が寝ている帰宅後というのが当てはまるのだと思われる。
子供の相手をしている休日では、実感している余裕はない(笑)。


この間も、長女が誕生日を迎え、9歳(現、小学3年生)になった。
もう9歳かぁ、早いな~と実感したのを覚えている。

しかも、誕生日をお祝いする度に実感するのだが、それと同時に、私も9歳年とったなーと考えさせられてしまう。
子供の成長を喜ぶ反面、自分の老いを認識させられる。

さらに先日、長女の口から『早く6年生になりたいな~』という言葉を聞いた。
『なんで?』と聞くと、『修学旅行の日光に行きたい。』という回答。

日光って・・・と思いつつも、あっという間に6年生になっていくんだろうなーと、しみじみ思う。

本当に子供の成長は早い!!
(き)


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2012-06-20 10:52:54 | 日記
タイトルを見て某ジャニーズ系アイドルグループの事を連想した方は残念でした。またのご来店をお待ちしております。

昨日は時期としては早めの台風4号が関東地方を通り過ぎていった。6月の台風上陸は8年ぶりのことらしい。
強烈な風雨の中、例によって傘をさした途端に傘が半壊状態に。傘をささずにズブ濡れになるか、傘をさして結局壊れてズブ濡れになるかのどちらかしか道は無いのだが、前者ではなく後者を選んでしまうのは人の性というべきなのだろうか。

タイミングが悪いことに昨日夜は当社内でも一般社員の研修があった。
ただ悪天候にも関わらず、出席率はかなり良く、ズブ濡れになりながらも研修に参加してくれた社員の方、研修を準備してくれた方にはお疲れ様でしたという他は無い。

単に移転して新しい本社を見に来たかっただけという噂は聞かない事にしておく。

社員の中にはやむを得ず残業をしている内に台風の影響で電車が止まり、帰宅したのが午前3時となった人もいたようだ。それでも今日は5時半に起床して出勤していることには頭が下がる。天候はかくも無慈悲なのか。

スナックに行っている間に台風のピークを迎えてしまった某上長の事は忘れておこう。


嵐は何も天候に限ったことではない。仕事上でも嵐はやってくる。

トラブルの発生。懸案事項の出現。様々な問い合わせ。これらが定常業務の上に乗っかってくる。これに忘れていたり放置していた宿題事項や懸念事項が重なるとパニック寸前の嵐になる。

タスクの発生時は瞬時に優先順位を決め、自分の脳内タスクリストにタスクが追加される。緊急度が高いものからランク付けがされ、一番高いものからA→B→Cの順に定義される。ここで気がつくと殆どがAランクで埋め尽くされているのがマズイ状態である。

Aを捌いている内にBがAに、CがBに昇格する。ひどいのは途中でAランクタスクやAの上を行く優先順位のSランクタスクが追加されるときだ。

嵐を乗り切るためにはいくつかの努力が必要になる。
・タスクをなるべく抽象化して処理スピードを上げる。
・嵐の予兆を見逃さない。
・周囲に対して抱えているタスクをオープンにして状況を理解してもらう。

3番目はつい面倒になり後回しにしがちだが、結構重要である。仕事は一人でするものでは無いことを念頭において、しっかり報連相を徹底する基本に立ち返った方がいいと思った今日この頃。反省しよう・・。



さて天候の話に戻るが、嵐が去った現在は雲も大分引いて青空が顔を見せている。抜ける様な青空や心奪われる様な星空をもたらしてくれるのならば、嵐も悪くはない。


仕事も快晴が訪れることを願って今は嵐の中を進もう。
(刑事長)


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名付け

2012-06-19 10:18:29 | 日記
先日、東洋経済という雑誌に新型うつは未熟型うつと呼んだほうが良い、という記事を見かけた。その記事を書かれた方によると、要するに新型うつは人格が未熟なまま成人してしまうことが原因だということで、新型とか何となくカッコいい名前をつけるから「俺、新型うつになっちゃってさー」なんて自慢する奴まで出てくるんだ、未熟型うつにしておけば「俺、未熟型うつになっちゃてさー」なんて恥ずかしくて言えないだろう、という話しだっだ。

たしかに新型うつのように、それがある種のステータスであるかのように使われる場面も出てきている。ニートも口に出すにはとてつもなく恥ずかしい名称を与えられていたら、また違った扱われ方をしていたかもしれない。

新型うつの原因がどうなのかは知らないが、確かに名前や名付けの力は大きいと思う。

暗闇から襲いくる牙を持った生物を怖れて長く暮らしていると、次第にあれを虎と呼ぶことにしよう、だとか、あれは狼だとか、名前が与えらてれくる。すると今まで恐怖に怯える夜を暮らしていたのに、名前が付いた途端、それを克服する知恵を捻り出してきたのが人類の歴史だ。

アフリカから発生した人類がグレートジャーニーの果てまで旅する過程で出会った様々な自然環境や動植物に次々に名前を付け、ときに忌避すべき相手を認識し、ときに傷ついた仲間を救う薬にしてきた。人類発生から今まで名付けの歴史は長い。

我々が事業を営んでいるIT業界でも名前はとてつもないパワーを持っている。大抵どんな技術動向もまずはコンサルティング会社が唱える、なんだか良く分からないけど凄そうな名前の付いた技術が発表される。バズワードというやつだ。このときはまだ概念や総称を表しているだけなので実態はほとんど無い場合が多い。また実態が伴っている場合は数年前に廃れっていった用語の言い直しが多い。

次々生まれるこうした名前の中から、時代の波とピッタリ一致するものが出てくる。すると、アッと言う間にこれからはXXだー!という共通認識の様な空気が出来上がる。クラウドなんかは最近の良い例だ。一般の方でもクラウドという言葉を意味は分からなくても聞いたことはあるだろう。

「失われた20年」とバブル崩壊からこっちの期間を言うらしい。こんなマイナスな言葉ではなく、地震に怯え、世界経済に翻弄され、政治家の権益争いに呆れている日本には、今こそ力強い明日や未来を予見できるこの時代の名前が必要なのではないだろうか。(野)


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星の旅人たち

2012-06-18 08:33:29 | 日記
 都会の生活は情報量が多く複雑でわかりにくい。今、自分は人生のどのあたりにいるのか。これから先はどの道を進めばいいのか。多くの選択肢と、選択肢にまつわるエピソードが溢れかえっていて迷うことばかりだ。にもかかわらず、何をやるにも選択して決断することが求められる。誰かに「おまかせ」でいいコースはほとんど無いと言っていい。多くの情報を精査し分析し最も自分に合う道を進もうとすればするほど自分の選択が正しいのか間違っているのか結果が気になり緊張し通しだ。見えているようでいて見えていない自分がいることを自分が一番わかっているから、ドキドキすることばかり。自分を変えてもっとうまくやりたい。逃げ出したいとは言わないけれど、ここを抜け出す何かきっかけが欲しい、そんな風なことを考える人も多いだろう。
 
 そう思いながら何もしない人もいるし何かしてみる人もいる。それぞれの何が違うのかわからないが、何かすることを選んでそれを実行した人のうち何人かは何もしなかった人より確実に回りがよく見えるようになっている。
 
 旅をする、という行為でそのきっかけを作ろうとする人達がいる。何かしてみようという思いを実行に移した人たちだ。聖地を目指すという旅、巡礼という名の旅を描いた映画を見た。目的地に向かってただ歩くだけの物語である。800キロという長い距離をただひたすら歩く。道があり、道しるべがあり、一緒に歩く人達がいて、目的地がある。選択肢は極めて少ない。進むか、やめるか。

 日常の生活から削れる情報をどんどん削って行ったらこうなった、というようなシンプルな内容だ。邦題は「星の旅人たち」という。原題は「The Way」。経済危機のまっただ中、スペインの大西洋岸にキリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラがある。イエスの十二使徒の一人、聖ヤコブの遺体が埋葬されている地だと言う。フランスからピレネー山脈を越えてこの聖地に向かう人々が毎年10万人もいるらしい。この巡礼の道自体が世界遺産に登録されている。その世界遺産の道、The Way が原題である。その地を「星の平原」と呼ぶことから、そこを旅する人たちを指して「星の旅人たち」という邦題がついた。
 
 巡礼に出発したその日に嵐に巻き込まれて亡くなってしまった40歳の男。彼の死を聞いて遠くカリフォルニアからスペインの山中まで遺体を引き取りに駆けつけた父は初老の眼科医である。ずっと息子と真正面から向かい合えなかった父が息子の遺灰を詰めた重いバックパックを背負って息子が果たせなかった巡礼の旅に出る。山越えの800キロは長い。黙々と歩くと、人は一人では生きられないことを象徴するかのように声をかけてくる者がいる。旅の仲間ができ、旅はシンプルだが深い思いの中を進む。
 
 太っちょで食いしん坊のオランダ人。DV被害の過去をひきずるカナダ女性。書けないアイルランド人作家。いつしか仲間になった連中と歩き、食べ、眠り、言いたい放題に言い合い、それでも隠しておきたいことを秘め、また歩く。多くの情報の中から道を選択する必要はなく、目的地に向かう道しるべに従ってひたすら歩く。決断すべきことはただ、先に進むか、もう歩くのをやめるか、本当の気持ちを話すのか話さないのか、仲間を助けるのか、自分だけで行くのか、ただそれだけ。
 
 巡礼の目的地サンティアゴ・デ・コンポステーラに着いても映画は終わらない。旅の途中、ジプシーに息子の遺灰を海に撒くように教えられた父が、そうしたいと考えていることを旅の仲間たちが知っているからだ。旅の仲間がまだ進みたいと考えているなら、最後まで一緒に歩きたい。シンプルに突き詰めて行くと、結局そういうことだった。仲間と一緒に歩きたい。
 
 複雑でわかりにくいご時世だが、自分の気持を素直に聞く耳を持つことが出来れば選択は案外簡単なことだ。楽しもう。(三)
 
 
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