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★ 授業の名人。斉藤喜博さんや大村はまさんの授業はNHKの番組で見たことがある。板倉聖宣さんの仮説実験授業は、板倉さんが大学の学園祭で実演されたときに参加させていただいた。こうした超有名人でなくとも先生の中には「役者やノォ~」と思わずうなるような授業のうまい先生がいる。
★ 授業のうまい教師には共通する特質があるようにも思う。話術はやはり必要だ。間のとりかた、表情、動作。どれも重要だ。暗い人や口ベたな人はやはり教師に適さない。生徒とまともにアイコンタクトができない人は生徒と心が通じるはずもない。中には役者としてはイマイチだが、脚本家として力を発揮する人がいるかも知れないけれど。
★ 教養や人間性。経験からくる自信、迫力なんてのもあるだろう。覚悟も大切かも。優柔不断はダメだ。自信がないのもダメだ。
★ 城山三郎さんの小説に「今日は再び来らず」というのがある。城山さんが塾・予備校業界を綿密に取材し書かれた作品だが、その中で予備校の講師に必要な資質を5つ挙げている。学者であり、芸者であり、役者であり、易者であり、医者である、と。なるほどなぁと思う。
★ 「授業の復権」の著者である森口朗さんは教師の授業力の低下を嘆く。そしてその原因を「ゆとり教育」「新学力観」に求める。
★ 確かに感じることがある。ここ20数年。少子化の流れの中で、教員の採用が抑制されてきた。教員養成大学では生き残りをかけ、教員免許をとらなくても卒業できるコースをつくったり、大学の統廃合を真剣に考えたぐらいである。そうした中で採用された教員は少数精鋭、優れた教員であるはずだった。戦後のデモシカ教員や「赤旗」教員とは違って。ところが現実は、子どもを前にしてうまく指導できない。問題を抱え込み心や体を壊してしまう、学級崩壊を防ぐことができない教員を多く生み出してしまったのである。
★ 少数精鋭の教員は意外とか弱く、ドサクサの中で大量採用された雑多な教員の方がむしろ力強く、学校に活気があったように思う。
★ もちろん社会背景が違っている。子どもも親も社会も今と昔では大違いである。昔あったような教師と親や子どもとの情報量の差も親の高学歴化やインターネット等情報技術の発達により、差がなくなるどころかむしろ逆転することも多くなってきた。教職の専門性が揺らぎ、教師の権威が低下したのも事実である。
★ こうした中で、「教師に何を求めるのか」と開き直られれば、返す言葉も難しいが、教員の「素人さ」を前提にファーストフードショップのように法則化、マニュアル化するか、「玄人」めざして修行を積んでもらうかである。教職の専門性を改めて築きなおしてもらうかである。
★ 「玄人」を目指す際も、戦前の師範教育を復活させるのか、近々実現する教職大学院に復権を求めるのか、これからが過渡期になりそうな気がする。