★ いじめ問題の大きな波はほぼ10年おきにやってくる。
★ 1986年2月、東京都中野区の中学2年生が「このままでは生き地獄」という遺書を残して自殺した。この事件では、教室で行われた「葬式ごっこ」に教師も加担していて大きな問題になった。1994年11月には、愛知県西尾市で中学2年生が自殺した。この時は「いじめ」を苦にした自殺が相次いだ。そして去年から今年にかけての北海道と福岡の事件である。繰り返される悲劇はいじめ問題の根深さと解決の難しさを物語っている。
★ ここでいう「いじめ」は学校を舞台とした「いじめ」である。そもそも「いじめ」の定義さえまだあやふやなままである。文部省は1994年度の「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」で「いじめ」を「①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実を確認しているもの、なお起こった場所は学校の内外を問わないものとする」としている。
★ 「いじめ」はいじめられた側の主観が大きく関わる点から客観的に認識することが難しい。また文部省(当時)の定義だと学校が認識していない(あるいは認識したと認めない)ものは「いじめ」から除外されてしまう。いじめられる対象がコロコロ移り変わる点も発見や対処を遅らせる原因になっている。
★ 「いじめ」は社会に蔓延している現象である。そしてなくすことはできないものだ。この前提に立たないと解決の糸口は見えてこない。「いじめ」は社会の病んだ状態だとも言える。軍隊や学校など閉鎖された特殊な環境においてそれは起こりやすいようだ。「いじめ」は学校教育における病理現象である。そしてこれは「死に至る病」である。
★ 陳腐な言い方になるが地域が崩壊し、家庭が孤立化し、また少子化や都市化が進む中で、地域や家庭における異年齢集団が形成されにくくなっている。生活習慣の変化や親の変質によりキレやすい子どもも増えているようである。葛藤や争いが起こったときに自分の感情をコントロールできずすぐに暴力を振るってしまったり、また歯止めがきかなかったり、悪ふざけが気分を高揚させ常習化するといった傾向が見られる。集団化は事態をより深刻にする。集団が未熟なせいか仲裁と言った争いをおさめる技術が形成されていない。
★ 「社会の学校化」(子ども達の生活に占める学校活動の増大)が子どもたちから逃げ場を奪っている。こう考えると実施が計画されている「放課後教室」は子ども達をますます学校に縛り付けることにならないだろうか。心配なことである。
★ 「いじめ」を病気にたとえれば風邪のようなものかもしれない。病気を発症する環境は常にあり、なんらかの原因で体力が衰えたときにアレルギー症状や感染症を引き起こすように、社会集団に何かキッカケが起こったときに「いじめ」が発症するのである。風邪がそうであるように早期に治療すれば回復も早いが、こじらせば死に至ることさえある。「風邪は万病のもと」と言われる所以である。風邪を予防するにはどうすればよいか、また悪化させないためにはどうすればよいか。予防のためには免疫を高めることである。「いじめ」に強い社会集団、子ども集団を形成することであろう。そして発症、つまり「いじめ」の萌芽が生まれれば早期に発見し適切な対応をしなければならない。
★ 治療法や特効薬のないのが心細いところだが、発見がまず第一歩であろう。時には隔離や手術も必要かもしれないが、「いのち」を守るといった一点に向けて対処する必要がある。最後に「社会の学校化」は是正すべきだ。子ども達が複数の集団に所属するようにシステムを作っていく必要がある。また親や教師に話せないことを話せる「おとな」をどう確保するかが課題である。
★ 1986年2月、東京都中野区の中学2年生が「このままでは生き地獄」という遺書を残して自殺した。この事件では、教室で行われた「葬式ごっこ」に教師も加担していて大きな問題になった。1994年11月には、愛知県西尾市で中学2年生が自殺した。この時は「いじめ」を苦にした自殺が相次いだ。そして去年から今年にかけての北海道と福岡の事件である。繰り返される悲劇はいじめ問題の根深さと解決の難しさを物語っている。
★ ここでいう「いじめ」は学校を舞台とした「いじめ」である。そもそも「いじめ」の定義さえまだあやふやなままである。文部省は1994年度の「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」で「いじめ」を「①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実を確認しているもの、なお起こった場所は学校の内外を問わないものとする」としている。
★ 「いじめ」はいじめられた側の主観が大きく関わる点から客観的に認識することが難しい。また文部省(当時)の定義だと学校が認識していない(あるいは認識したと認めない)ものは「いじめ」から除外されてしまう。いじめられる対象がコロコロ移り変わる点も発見や対処を遅らせる原因になっている。
★ 「いじめ」は社会に蔓延している現象である。そしてなくすことはできないものだ。この前提に立たないと解決の糸口は見えてこない。「いじめ」は社会の病んだ状態だとも言える。軍隊や学校など閉鎖された特殊な環境においてそれは起こりやすいようだ。「いじめ」は学校教育における病理現象である。そしてこれは「死に至る病」である。
★ 陳腐な言い方になるが地域が崩壊し、家庭が孤立化し、また少子化や都市化が進む中で、地域や家庭における異年齢集団が形成されにくくなっている。生活習慣の変化や親の変質によりキレやすい子どもも増えているようである。葛藤や争いが起こったときに自分の感情をコントロールできずすぐに暴力を振るってしまったり、また歯止めがきかなかったり、悪ふざけが気分を高揚させ常習化するといった傾向が見られる。集団化は事態をより深刻にする。集団が未熟なせいか仲裁と言った争いをおさめる技術が形成されていない。
★ 「社会の学校化」(子ども達の生活に占める学校活動の増大)が子どもたちから逃げ場を奪っている。こう考えると実施が計画されている「放課後教室」は子ども達をますます学校に縛り付けることにならないだろうか。心配なことである。
★ 「いじめ」を病気にたとえれば風邪のようなものかもしれない。病気を発症する環境は常にあり、なんらかの原因で体力が衰えたときにアレルギー症状や感染症を引き起こすように、社会集団に何かキッカケが起こったときに「いじめ」が発症するのである。風邪がそうであるように早期に治療すれば回復も早いが、こじらせば死に至ることさえある。「風邪は万病のもと」と言われる所以である。風邪を予防するにはどうすればよいか、また悪化させないためにはどうすればよいか。予防のためには免疫を高めることである。「いじめ」に強い社会集団、子ども集団を形成することであろう。そして発症、つまり「いじめ」の萌芽が生まれれば早期に発見し適切な対応をしなければならない。
★ 治療法や特効薬のないのが心細いところだが、発見がまず第一歩であろう。時には隔離や手術も必要かもしれないが、「いのち」を守るといった一点に向けて対処する必要がある。最後に「社会の学校化」は是正すべきだ。子ども達が複数の集団に所属するようにシステムを作っていく必要がある。また親や教師に話せないことを話せる「おとな」をどう確保するかが課題である。