じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「遠き落日」

2006-10-02 17:16:10 | 
遠き落日〈上〉

集英社

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★ 渡辺淳一氏による野口英世の伝記小説である。

★ 野口英世といえば黄熱病の研究で知られ、日本を代表する偉人の一人である。しかしそんな彼にも幼い頃はあったし、後世の人が描き上げるような模範的な人物像とは違った人間的な面をもっていた。

★ たとえばお金のこと。詐欺とまでは言わないが、借りたお金にかなり無頓着だったようだ。もちろん確固たるコネもなく明治と言う時代に単身アメリカに渡るのであるから、細々とした精神の持ち主では到底生き残ってはいけない。

★ ある種の図太さと狂気にも似た熱心さ、集中力があればこそあれだけの業績を残せたのだ。

★ この小説の面白さは、人間・野口英世に接することができる点である。
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揺らぐ義務教育

2006-10-02 14:14:16 | 教育
★ 給食費の未払いが増えていると言う。経済的な理由で払えないなら致し方ないが、ほとんどが親の身勝手な理由によるものだという。そうした親の家庭がどのようなものであるかは、推し量ってしかるべしである。

★ 人間は生まれながらにして不平等である。人権宣言であえて「平等」だというのは、不平等な現実への皮肉であろう。今さら原始共産制へは戻れないし、また原始共産制は今日以上に過酷な弱肉強食社会だとも言える。

★ 学校教育が義務なのは国家としてその必要性があったからである。日本の場合は富国強兵政策の一環であり、確かに「学制」が発布された明治維新の頃は個人主義的な立身出世を標榜してのものであったが、やがて国家権力が強力になると、就学は徴兵と同じく国民の義務となった。

★ 戦後数十年がたち、個人主義が貫徹されるにともなって、教育も極めて個人主義的なものになってきた。学校教育は行政サービスの色合いが強くなってきた。先のわがままな親の主張もこうした社会背景から生じたものであろう。

★ サービスならそれに徹するのも一つの方法だ。つまり欠食児童を容認すればよい。

★ これは学童保育でのことだが、弁当持参の案内を出したにもかかわらず、弁当を持ってこない子どもがいるという。それも一度だけのことではない。みんなが食事をしているのに一人指をくわえている子を見ているのは忍びない。指導員は親に連絡するが、辛抱させてくれとのこと。指導員は心が痛むので食事を与えようと思うが、そうすると親はそれを当然のこととして、また弁当を持参させないから、かわいそうだが食事を与えてはいけないという。

★ 親に問題があるのは言うまでもない。ただその親に対してなかなか対応ができない。虐待と言いたいところだが、弁当を持参させないだけではそれも難しいようだ。指導員は人道的な良心と現実との間で悩むと言う。

★ 80年代の臨教審、行政改革以降、受益者負担の原則が徹底されるようになってきた。それまで、国家の目的は福祉社会をめざすことであったが、それは行政組織を肥大化させ、効率が低下した。ましてや少子高齢社会、低成長社会の到来である。肥大化した行政を維持していたのでは財政がもたないのは目に見えてきた。

★ そして行政組織のダイエットが行われるが、学校の荒れを背景に教育の分野でも公立離れが進行した。経済的にわずかでもゆとりのある人は、授業を荒らす「不良」が跋扈し、それを十分に指導できない公立学校を避け、進んだ学習内容やキメの細かい生徒指導、進路指導を行う私立学校へと進学するようになったのである。

★ 義務教育は今日危機にある。長期的な観点に立ち「啓蒙」を行っていくか、強権を発動して不埒な親を検挙し罰則を与えるか。教育のあるべき姿を再確認する必要がありそうだ。
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