★ 今日の朝日新聞朝刊に「教育学者のいない教育再生会議」という記事が載っていた。タイトルの「戦後教育学の敗北」という言葉は、その記事の中で苅谷剛彦氏の言葉として紹介されている。
★ 記事の概要は、安倍総理肝いりの「教育再生会議」に教育学者がいない現実を踏まえて、教育学とは何であるのか、戦後教育学は運動体との結びつきが強かったがゆえに、革新勢力の衰退とともにその足場を失い方向性を見失って混迷しているのではないか、というものだ。
★ 教育学を学ぶものとしては、改めて刺激を受けた。
★ もちろん教育学といってもその分野、研究方法は多様で、また学問としての教育学は比較的新しいものである。だから「教育学とはなんであるか」という問いや研究方法の模索が常に行われている。こうした作業自体は学問が新陳代謝し体系化されていく上で必要なことであろう。
★ 記事では「教育学」と「戦後教育学」が同一視して捉えられているが、これにはより厳密な吟味が必要だ。「戦後教育学」にしても戦後の「教育学」なのか、「戦後教育」の学なのかわかりにくい。
★ 教育社会学者の不満はよくわかる。調査をしようにも「結果が出ては困る調査」(例えば学校間や教師間の差が出るもの。その結果によって世論や行政、父母から批判されそうなもの。関係や障害児教育・就学指導など運動体の強い領域)には現場は協力してもらえない。今でこそ学力テストができる時代だが、文部省対日教組が激しく対立していた時代では、どちらも閉鎖的で「科学的」が科学的でありにくい状況にあった。
★ 私が学んでいる学校経営学や教育行政学は、政治や経済とより密接に関係しているだけに、より「科学的」に研究をしていくことが求められるが、それはなかなか難しい。言い訳をすれば、そもそも社会科学は自然科学のように客観的に明確な法則性を見つけることは難しく、現状を解釈するにとどまりやすい。研究者自身、その解釈で作業を終え、それを政策的に結びつけてこなかった。俗世に首を突っ込まないといった妙なアカデミズムがあったのかも知れない。教育学者に野心家が少なかったということかも知れない。
★ まして、教育社会学、学校経営学、教育哲学、教育心理学という学問分野名が示すように研究対象としてこそ「教育」を扱っているが、その方法は「社会学」「経営学」「哲学」「心理学」といった他の学問に依拠している。教育学固有の研究方法の確立には至っていないと思う。
★ 「教育」が誰にも語れる内容であることも大きい。教員の専門性、教育学者の専門性が問われる所以である。「教育観」は誰もがもち、それに理屈をつけ「教育論」まで語れる人は多い。これを「教育学」として体系だてることこそ教育学を学ぶ者が日夜奮闘している作業であると思う。
★ マルクスやガリレオのような巨頭(何でも屋さん)が現われて、すべてを体系だててくれれば楽なのだが、それは現実的ではなく共同作業を積み重ねていくしか仕方がない。
★ 記事としては、日教組などの運動体のイデオローグとして活躍した教育学者を批判しつつ、「さてどうする」と問題提起で終わっている。
★ 反論の形で掲載されている堀尾輝久氏だが筋が通っている。立場はさまざまであろうがこうした筋の通った学者が論議を沸騰させることが学問としての活性化につながると思う。もちろんそれは学問としての話であって、教育政策でこれをやっては教育再生会議と同じくまとまりのないものになってしまう。
★ 教育政策としては行政の長が決断し、立法府が連帯して責任を負い、後の世の批判に晒されるべきであろう。学問的な裏づけをどれほど重視するか、学問をどれほど利用・活用できるかは、行政の長たるものの知的レベルの問題であろう。
★ 根拠のない「親学」を提言するようでは次元は低いが。政府は「教育勅語」でも出したいんだろうねぇ。
★ 話は脱線したが、教育学を学ぶものとして、考えることの多い記事だった。
★ 記事の概要は、安倍総理肝いりの「教育再生会議」に教育学者がいない現実を踏まえて、教育学とは何であるのか、戦後教育学は運動体との結びつきが強かったがゆえに、革新勢力の衰退とともにその足場を失い方向性を見失って混迷しているのではないか、というものだ。
★ 教育学を学ぶものとしては、改めて刺激を受けた。
★ もちろん教育学といってもその分野、研究方法は多様で、また学問としての教育学は比較的新しいものである。だから「教育学とはなんであるか」という問いや研究方法の模索が常に行われている。こうした作業自体は学問が新陳代謝し体系化されていく上で必要なことであろう。
★ 記事では「教育学」と「戦後教育学」が同一視して捉えられているが、これにはより厳密な吟味が必要だ。「戦後教育学」にしても戦後の「教育学」なのか、「戦後教育」の学なのかわかりにくい。
★ 教育社会学者の不満はよくわかる。調査をしようにも「結果が出ては困る調査」(例えば学校間や教師間の差が出るもの。その結果によって世論や行政、父母から批判されそうなもの。関係や障害児教育・就学指導など運動体の強い領域)には現場は協力してもらえない。今でこそ学力テストができる時代だが、文部省対日教組が激しく対立していた時代では、どちらも閉鎖的で「科学的」が科学的でありにくい状況にあった。
★ 私が学んでいる学校経営学や教育行政学は、政治や経済とより密接に関係しているだけに、より「科学的」に研究をしていくことが求められるが、それはなかなか難しい。言い訳をすれば、そもそも社会科学は自然科学のように客観的に明確な法則性を見つけることは難しく、現状を解釈するにとどまりやすい。研究者自身、その解釈で作業を終え、それを政策的に結びつけてこなかった。俗世に首を突っ込まないといった妙なアカデミズムがあったのかも知れない。教育学者に野心家が少なかったということかも知れない。
★ まして、教育社会学、学校経営学、教育哲学、教育心理学という学問分野名が示すように研究対象としてこそ「教育」を扱っているが、その方法は「社会学」「経営学」「哲学」「心理学」といった他の学問に依拠している。教育学固有の研究方法の確立には至っていないと思う。
★ 「教育」が誰にも語れる内容であることも大きい。教員の専門性、教育学者の専門性が問われる所以である。「教育観」は誰もがもち、それに理屈をつけ「教育論」まで語れる人は多い。これを「教育学」として体系だてることこそ教育学を学ぶ者が日夜奮闘している作業であると思う。
★ マルクスやガリレオのような巨頭(何でも屋さん)が現われて、すべてを体系だててくれれば楽なのだが、それは現実的ではなく共同作業を積み重ねていくしか仕方がない。
★ 記事としては、日教組などの運動体のイデオローグとして活躍した教育学者を批判しつつ、「さてどうする」と問題提起で終わっている。
★ 反論の形で掲載されている堀尾輝久氏だが筋が通っている。立場はさまざまであろうがこうした筋の通った学者が論議を沸騰させることが学問としての活性化につながると思う。もちろんそれは学問としての話であって、教育政策でこれをやっては教育再生会議と同じくまとまりのないものになってしまう。
★ 教育政策としては行政の長が決断し、立法府が連帯して責任を負い、後の世の批判に晒されるべきであろう。学問的な裏づけをどれほど重視するか、学問をどれほど利用・活用できるかは、行政の長たるものの知的レベルの問題であろう。
★ 根拠のない「親学」を提言するようでは次元は低いが。政府は「教育勅語」でも出したいんだろうねぇ。
★ 話は脱線したが、教育学を学ぶものとして、考えることの多い記事だった。