こちらの秋は、気温が高めに推移したので
お隣の庭では、淡いピンクの昼咲月見草が咲いています。
この花は名前の通り昼間もずっと咲いています。
用途は鉢植え、花壇です。
今日は淡いピンクの昼咲月見草と白と黄色の菊の花を紹介致します。
お隣の庭の「昼咲月見草」
菊の愛好家の鉢植えの「菊」
こちらの秋は、気温が高めに推移したので
お隣の庭では、淡いピンクの昼咲月見草が咲いています。
この花は名前の通り昼間もずっと咲いています。
用途は鉢植え、花壇です。
今日は淡いピンクの昼咲月見草と白と黄色の菊の花を紹介致します。
お隣の庭の「昼咲月見草」
菊の愛好家の鉢植えの「菊」
詩編55編の前半には、ダビデのような信仰の人も、邪悪な者が加える圧迫から不安に駆られ、かつ死の恐れから「身震いがわたしを覆います」と記していました。そのような極度の人への恐れの中でも、ダビデは神エホバに全き信頼を置き、心の中を吐露し、依りエホバ神に頼み「わたしの祈りに耳を向けてください」と、救いを求める祈りの言葉を記しています。私たちも厳しい試練に遭遇しても、ダビデの模範に見倣うなら、エホバ神は忠節な者に、忠節をもって救いを施してくださいます(サムエル第二22:26)。今日紹介する詩編55編の後半には、引き続きダビデの神エホバへの依り頼む祈りの言葉が記されています。ダビデの祈りの言葉にこたえて、神エホバは、必ず魂(命)を請け戻し、安らぎを与えてくださる、保証の言葉があります(詩編55:18)。さらに、「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ」と記され、救いの神エホバに全き信仰を抱くことの重要性を教えています。あなたもそのようになさらる方であれば幸いです。
詩編55編12~23節には、次のように記されています。
「12 わたしをそしるようになったのは
敵ではないからからです。
そうでなければ、わたしは耐えられたでしょう。
わたしに向かって威張ったのは、
わたしを激しく憎む者ではありませんでした。
そうでなければ、わたしはその者から
身を覆い隠せたことでしょう。
13 そうではなく、それはわたしと並ぶ者であった
死すべき人間、
わたしの親密な者、わたしの知己であった
あなただったのだ。
14 わたしたちは親愛の情を抱く仲だったからだ。
わたしたちは群衆と共に神の家へ
歩いたものだった。
15 荒廃が彼らに臨め!
彼らは生きたままシエオルに下って行け。
外国人として居留している間、
彼らの内には悪いことがあったからである。
16 しかしわたしは、神(エホバ)に呼ばわる。
すると、エホバご自身が
わたしを救ってくださる。
17 わたしは夕に朝に昼に、気遣いを示さずにはいられず、
うめき声を上げる。
そして、神はわたしの声を
聞いてくださる。
18 わたしに対する戦いから、神は必ず
わたしの魂(命)を請け戻し、
安らぎを与えてくださる。
19 神は聞いて、彼らに与えられるであろう。
昔と同じようにみ座に
坐しておられるその方(エホバ)が。
彼らは変わることのない者であり、
神を恐れなかった者たちである。
20 彼は自分と平和に暮らしている者たちに
向かって手を突き出した。
彼は自分の契約を汚した。
21 彼の口の言葉はバターよりも滑らかだ。
しかし、その心は戦いに傾く。
彼の言葉は油よりも柔らかい。
しかし、それは抜き身の剣である。
22 あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。
そうすれば、神(エホバ)が自ら
あなたを支えてくださる。
神は義なる者がよろめかされることを
決してお許しにならない。
23 しかし、神(エホバ)よ、あなたは彼らを
最も低い坑に陥れられます。
血の罪を負う、欺まんに満ちた者たちは、
自分の日数の半ばも生きることはありません。
しかしわたしは、あなたに
依り頼んだのです」(詩編55:12~23)。
上の聖句の詩編55編12節に記されている「敵ではない」とは、だれを指した言葉でしょうか。「敵ではない」とは、ダビデ王の息子アブサロムです。アブサロムは父ダビデに反逆したのです。それゆえ、ダビデは耐え難い苦しみを経験したのです(サムエル第二18:6~17)。詩編55編13節の「わたしの知己」とは、だれのことでしょうか。「わたしの知己」とはダビデ王が信頼していた顧問官のアヒトフェルでした。しかし、反逆のアブサロムの側に立ったのです(サムエル第二15:7~12)。ダビデが「わたしの心は、わたしの内で激しく痛んでいます」と述べた、父親としての激しい心痛が分かるのではないでしょうか(詩編55:4)。しかし、ダビデは悪を厳しく憎み「荒廃が彼らに臨め!」と祈願しています。義なる者は悪を厳しく憎むのです。神エホバは優柔不断で臆病な者を憎まれるのです(啓示21:8)。特筆すべきことは前書きに記しました。加えて「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ」と記されています(詩編55:22の前半)。イエスは苦しみの杭の上で、贖いの死を遂げるまで、み父エホバに従順にご自身をゆだね、模範を手本として残されました(フィリピ2:8.ペテロ第一2;21)。エホバ神に全き信仰を抱く「義なる者がよろめかされることを決してお許しにならない」のです(詩編55:22の後半)。さらにエホバ神のご意志を行う義なる者は間もなく回復される義の宿る地上の楽園に残され、そこに永久に住む特権にあずかるのです(詩編37:29.ペテロ第二3:13.啓示21:4)。ダビデはどのような場合もエホバに依り頼む、全き信仰を示し、祝福を得ることができました(詩編55:23)。
ワンちゃんも 紅葉意識 ポーズ取る 今日の一句
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菊の愛好家の「鉢植えの菊」