庭のブルーベリーの花が咲いていますが、この花はとても地味な花です。
ブルーベリーの花はどんな花が咲くのか、郷里に帰り庭に植え
花が咲くまで、どのような花かが分かりませんでした。
都会暮らしの方々は、ブルーベリーの花を見る機会はないかも知れません。
ブルーベリーの花は私の手持ちの花図鑑には紹介されていませんでした。
今日はブルーベリーの花と淡いピンクの椿を紹介致します。
庭に咲いている「ブルーベリーの花」
庭で次々と咲く「椿」
庭のブルーベリーの花が咲いていますが、この花はとても地味な花です。
ブルーベリーの花はどんな花が咲くのか、郷里に帰り庭に植え
花が咲くまで、どのような花かが分かりませんでした。
都会暮らしの方々は、ブルーベリーの花を見る機会はないかも知れません。
ブルーベリーの花は私の手持ちの花図鑑には紹介されていませんでした。
今日はブルーベリーの花と淡いピンクの椿を紹介致します。
庭に咲いている「ブルーベリーの花」
庭で次々と咲く「椿」
イザヤ書の9章6節に記されていた「力ある神」、「とこしえの父」とは誰を表す預言の言葉でしょうか。「くすしい助言者」と同様、イエスは「力る神」また「とこしえの父」でもあります。これは、イエスが「わたしたちの父なる神」エホバの権威や地位を表す意味ではありません(コリント第二1:2)。聖書には、「彼(イエス)は・・・強いて取ること、つまり、自分が神(エホバ)と同等であるようにということなどは考えませんでした」と記されている通りです(フィリピ2:6)。イザヤ書では、イエスは「全能の神」とではなく、「力ある神」と呼ばれています。イエスは地上に遣わされている間、自分が全能の神とは一度も考えませんでした。み父エホバのことを「唯一まことの神」、つまり崇拝するべき唯一の神エホバと呼ばれている通りです(ヨハネ17:3.啓示4:11)。聖書中で、「神」という語は「力ある者」、あるいは「強い者」を意味する場合があります(出エジプト記12:12.詩編8:5.コリント第二4:4)。イエスは地上に遣わされる前天で「神(a god)」、つまりう神エホバのような特質を備えたみ使いでしたが、復活後は天に戻り、より高い地位に神エホバに依って就かされました(ヨハネ1:1.フィリピ2:6~11)。
さらに「神」という名称には、別の意味もあります。当時イスラエルで裁きを行う人たちは「神」と呼ばれており、一度はイエス自身もその呼び方を用いられました(詩編82:6.ヨハネ10:35)。イエスは神エホバの任命を受けた裁き主であり、「生きている者と死んだ者とを裁くように定められて」います(テモテ第二4:1.ヨハネ5:30)。確かに、イエスはイザヤが預言して記した「力ある神」という名にふさわしいことを実証されました(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を参照)。
イエスの「とこしえの父」という称号は、地上でのとこしえの命の見込みを人間に与える、メシアなる王としての力と権威に注意を引きます(ヨハネ11:25,26.マタイ28:18)。人類最初の親のアダムの罪と死が、人類社会に入りましたが、イエスは「命を与える霊になり」ました(コリント第一15:22.ローマ5:12,18)。「とこしえの父」であるイエスは永久に神の王国の王として生きるので、従順な人類は、神エホバのご意志を反映したイエスの働きからとこしえに益を受けます(ローマ6:9)。
あなたも、「力ある神」、「とこしえの父」であるイエスに従う従順な方々のお一人であれば幸いです。次回にイエスは、「平和の君」であることについてお伝え致します。
受付の 初々しきなり 新社員 今日の一句
庭で次々と咲く「クリスマスローズ」
- 周りの黄色の花はカタバミです -
青のムスカリの花が、庭のハナニラの傍に咲いています。
ムスカリの花はぶどうの房状に咲くのが特徴で、
小さなツボ状の花の集まりです。
花期は3月~4月です。
用途は切り花、鉢植え、庭植えです。
花言葉は「気品」と紹介されています。
今日は青のムスカリの花と淡いピンクの椿を紹介致します。
庭に咲いている「ムスカリの花」
- 白い花はハナニラです -
庭で次々と咲く「椿」
聖書は、預言の書とも呼ばれています。神エホバはご自分の目的を漸進的に明らかにされ、預言がどのように成就していくかを確証できるようにしてくださっています。
メシア(ギリシャ語ではキリスト)となるべく地上に遣わされ生まれた方は、その奇跡的な誕生の際に、「エホバは救い」という意味の「イエス」と名付けられました。そのイエスには、重要な役割や高められた地位を示す預言的な名が幾つかあります。そうした名の一つは、「わたしたちと共に神エホバはおられる」という意味の「インマヌエル」です(イザヤ7:14、脚注)。イザヤは、ほかの預言的なイエスの名・称号についてこう記しています。「わたしたちのためにひとりの子供が生まれ、わたしたちにひとりの男子が与えられた・・・。君として支配がその肩に置かれる。そして彼の名は、”くすしい助言者”、”力ある神”、”とこしえの父”、”平和の君”と呼ばれるであろう」(イザヤ9:6)。この聖句に記された預言的な名の持つ意味について考えてみましょう。
「助言者」とは助言や忠告を与える人のことです。イエス・キリストは地上にいた時、くすしい助言を与えました。聖書は、イエスの教えについて、「群衆はその教え方に驚き入っていた」と記しています(マタイ7:28)。イエスは、感情移入する賢明な助言者であり、人間の本性に関する並外れた理解を持っておあられました。その助言は、譴責したり懲戒したりすることだけに限られてはいません。それよりも、分かり易い教訓や愛ある忠告の形で与えられることのほうが多かったのです。いえすの助言がくすしい、と言えるのは、それがいつも道理に合って賢明であり、完璧で、誤りのないものだからです。イエスの助言に従うなら、互いに平和を造り出し、永遠の命に導かれます(マタイ5:9.ヨハネ6:68)。
イエスの助言は、単なる人間の才気あふれる知性、知恵の所産ではありません。イエスは、「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わした方(エホバ)に属するのです」と、教えられました(ヨハネ7:16)。ソロモンの場合と同様、イエスの知恵の源はエホバ神です(列王第一3:7~14.マタイ12:42)。ですからイエスは”くすしい助言者”なのです。イエスの模範を考えると、助言者の立場の人は、クリスチャンであっても無くても、常に神エホバの教えの言葉に基づき教訓を与えるようにしたいものです(箴言21:30)。
あなたも、イエスの残された模範、手本に見倣う方々のお一人であれば幸いです(ペテロ第一2:21)。
紙風船 突きて遊びし 日は遠し 今日の一句
雨上がりの庭の「ハナニラ」