イザヤ書からお分かりの通り、当時神エホバの民は、自分たちは霊的に思慮深いと唱えていますが、その心は神エホバを捨てていました。神エホバは、彼らの偽善に関する言い開きを求めます。イザヤは次のように記しています。
「エホバはこう言う。「この民は口では私(エホバ)に近づくと言い、唇で私(エホバ)を敬うが、心は私から遠く離れている。彼らが私を畏れるのは、人間の命令を教え込まれたからにすぎない。そのため、この私(エホバ)が、驚くべきことを再びこの民に行う。驚きに驚きを重ねて、賢人たちの知恵は滅び、思慮深い人たちの理解は失われる」」(イザヤ29:13,14)。
神エホバが物事を巧みに導き、背教したユダの宗教指導体制全体がバビロニア世界強国によって拭い去れるようになる時、ユダが知恵や理解と唱えるものは滅びます。それは、口では神エホバを敬うと、言いながら、心は神エホバから遠く離れていたからです。1世紀にも同じことが、ユダヤ人の賢明な指導者と称する人々が国民を惑わした後に生じた、同様なことは、私たちの時代にも、キリスト教世界にも生じます。(マタイ15:8,9.ローマ11:8)。
とはいえ、イザヤが告げた時点では、ユダの指導者たちは自慢して、自分たちは如才ないので、真の崇拝を歪めても咎めを受けることは無い、と思い込んでいました。しかし、そのような不義を神エホバが許すことはありません。イザヤは彼らの仮面をはぎ取り、彼らには神エホバに対する純粋な恐れがなく、そのため真の知恵もないことを暴き、次のように明らかにしました。
「計画をエホバから必死に隠そうとする者たちは災いである。彼らが暗闇の中で事を運び、こう言う。「誰がわれわれを見ているだろうか。誰がわれわれのことを知っているだろうか」。あなたたち(ユダの指導者たち)は物事をゆがめている!陶芸家が粘土と同じに見做されるべきだろうか。作られた物が作った人について、「彼は私を作らなかった」と言うべきだろうか。形作られた物が形作った人について、「彼は分っていない」と言うだろうか」(イザヤ29:15,16.詩編111:10と比較)。
ユダの指導者たちは、どれほどうまく身を隠していると思っても、神エホバの目には「裸で、さらけ出されておる」のです(ヘブライ4:13)。ですから、誰も、神エホバの目から悪事を行っても、見つからないと思ってはなりません。
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夕立後 虹ある景色 なくなりし 今日の一句
友人宅の庭の「8月5日のバラ」