ポッドキャスト、「オイサオイサで山車ラジオ」に参加して、片手袋研究や路上観察をする上でのジレンマなどを語らせて頂いたのは、以前お知らせしました。
その中で唐突に僕が「両手袋も片手袋である」と言い出す件があるのですが。まあ、我ながら頭おかしいですよね。
でもこの発言、色々と考えた上で僕の中で確立された理論なんですよ。なので今日はそれを説明してみたいと思います。
まず片手袋の話をしたときに結構聞かれるのが、「両手袋は撮らないんですか?」という事です。まあね、片手袋程心から魅かれる存在ではないにせよ、やっぱり撮っちゃいますよね。
で、両手袋と片手袋の違いを考える時に重要な問題は二つあります。まず一つ目は、当ブログでもたびたび触れている、「手袋と手袋の距離の問題」です。
上の三つの両手袋は右と左の距離が極めて近いですよね。
ではこれはどうですか?若干距離が離れました。でも、まだ揃いの手袋であることは分かります。
ではこれはどうでしょう?流石にこれだけ離れていたら、どちらか片方しか見つけられない可能性は大きいです。仮に両方見付けられても、ここまで離れるともはや両手袋ではなく、片手袋が二つ、とならないでしょうか?
しかし、「では両手袋と片手袋二つの境目となる距離は何cmなのか?」という事を厳密に決める事は出来ないですよね。
こんな風に揃っていても、風が吹いてどちらか片方が離れていってしまえば、いずれは片手袋二つ、になる。つまり「両手袋はプレ片手袋である」と言う事が出来ます。
二つ目の問題です。それはこの片手袋に出会った時に気付きました。
新品未使用、一回も人間の手に装着されていない片手袋が落ちていたのです。恐らくホームセンターなどで売っている、袋に入った大量の軍手から一つだけ落ちてしまったのでしょう。
「片手袋はどこか寂しい」と感じる方は多いと思います。二つ揃って役割を果たす手袋が片方だけになって無用の長物化している訳ですし、大事にしていたであろう持ち主の手を離れてしまった状態が片手袋なのですから。
でも不思議とこの未使用片手袋からは寂しさを感じませんでした。まず大事にしていた持ち主が不在ですし、そもそもこいつは一回もペアになっていない、対になる相棒がいた経験をしていないのです。
でも、ちょっと待てよ?手編みでもない限り、手袋は機械的に大量生産されているのです。別々に出来上がってきた右と左の手袋を最終的に組み合わせて、販売されるのです(一部の軍手やディスポーザル類など、そもそも左右の区別のないものすらあります)。
つまり、「元々左右揃いだった手袋が落とされて片手袋は生まれるのだから、片手袋は寂しいのだ」というのは人間の勝手な思い込みで、「手袋というのは元々片方だけで生まれてきて、後から揃いになる。落とされて片手袋になるのは元に戻っただけ」という考え方も出来るのではないでしょうか?
この考え方の応用パターンとして、
意外と元の相方でなくても、もう一つ片手袋がそばにあると寂しさを感じませんし、
なんなら手袋ですらなくても相方感は出てしまうんですよ。
整理します。
①「揃い」と「片方」を区別するのは意外と難しい。両方揃っていても、それは「プレ片手袋」とも言える
②そもそも手袋は揃いの状態が普通なのではなく、片方の状態が普通なのではないか?だとすると「両手袋は片手袋が二つある状態」なのではないか?
どうです?もうこの写真を見ても片手袋が二つある、としか思えないでしょう?
…あのですね、片手袋研究だけでも一般性がないのに、「両手袋は片手袋である」とか言い出したら、さすがに自分で自分が心配になってきましたよ。
最後に。こんな僕が心の拠り所にしている歌があります。昨日亡くなったかまやつひろしの『ゴロワーズを吸ったことがあるかい』です。この歌詞を胸に、僕はこれからも心を強く持ち片手袋の事を考えつくしていきたいと思います。
“君はたとえそれがすごく小さな事でも
何かにこったり狂ったりした事があるかい
たとえばそれがミック・ジャガーでも
アンティックの時計でも
どこかの安い バーボンウィスキーでも
そうさなにかにこらなくてはダメだ
狂ったようにこればこるほど
君は一人の人間として
しあわせな道を歩いているだろう”