2017/7/30 マタイ七1-8「何を求めているか」働くクリスチャンの会
マタイの福音書の5章から7章には、イエスが語られた「山上の説教」が記録されています。この「山上の説教」の中心は六33の
「神の国とその義とを第一に求めなさい」
だと私は思っています。それはイエスの言葉
「天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くなりなさい」
とも言い換えられます。それを具体的に教えるために、沢山の教えと例話とを語っておられるのですが、今日はその一つ、7章1節以下の
「さばいてはいけません」
の部分をご一緒に聞きたいと思います。
勿論ここでは、あらゆる裁き、裁判や司法制度を否定されてはいません。また、何事につけて判断をしてはならないと仰ったのでもありません。15節では
「にせ預言者たちに気をつけなさい」
と言われ、牧師や教師でも神の御心と正反対のことをしていることがあると強くイエスは仰います。問題がありそうで怪しいのにそれを見ず、はっきり問題があっても「キリスト者なんだから赦そう。さばかず、目を瞑ろう」というような胡麻菓子はイエスの言葉の大きな誤解です。ここではそういう「処理すべき問題」では無く、いつも人を裁いて、批判し、その問題を批評するような、そういう態度が窘められているのです。
「さばかれないため」
というのも、2節で補足されているとおり、その裁きの容赦ない基準が自分にも当てはめられるなら、誰も耐えられる人はいません。人の問題を論うのであれば、自分の問題も論われます。
この「さばいてはならない」が3節以下ユーモラスに語られます。
「兄弟の目の中のちりに目を向けるが、自分の目の中の梁には気がつかない。」
人の目にある塵を取ろうとしながら、自分の目には梁が入っている。「針」ではなく「梁」です。材木が目に入るなんて無理です。しかしイエスはあなたの目には梁があると仰るのです。
この「梁」は、多くの場合、自分自身の問題や罪だと理解されます。人の問題を裁く以前に、自分に問題があることを思い出す、という事でしょうか。人の欠点を直そうとしてやるより、まず自分自身の欠陥を認め、ケアすることが大事です。自分には問題が無く、正しく、あなたよりも分かっているから、という態度を捨てて、自分自身、問題があり、癒やされるべき大きな課題がある。そういう謙虚な生き方へと、イエスは私たちを招いてくださっているのかもしれません。もっと言えば、私たちは自分自身の問題や渇きを、他者の問題を指摘したり、助けたりしてあげることによって解決しようとすることがあります。自分より間違っている人を批判し、助けてあげる善人を演じることで、安心しよう、劣等感から逃れよう。そういう行動を取ってしまうことが少なくありません。しかし神の国は、裁く正しさによって成り立つ国ではありません。ひとりひとりが自分の目に梁を持つ者、裁かれてはひとたまりも無い問題を持つ者として、まず自分が謙虚に癒やしを求めることが神の国の義だ。そう読むことも出来ます。
最近読んだ『エクササイズⅡ』という本は、この「梁」とは「裁く」ことそのものと理解していました。
人を裁く行為がその人の目を塞ぐ「梁」だと言うのです。確かに裁きは、正しいようで、本当に正しい判断を曇らせ、問題だけを過大視してしまうものです。もっと言えば、梁は振り回すと危ない材木です。人を裁くような目(見方)は梁を振り回すような、危なっかしい事だ。相手をも自分をも、周囲をも傷つけるような暴力だ、というイメージも連想してよいかもしれません。その裁きがどんなに正しくても、いいえ、非の打ち所のない正論であればあるほど、その人は立ち直れないほど傷つくでしょう。裁く側は、自分の言い分の正しさに自信満々であっても、その梁を振り回した結果、取り返しの付かないダメージで、人間関係を壊すことがあります。私たちが求めるべきは、自分の正義、正しさでは無く、神の国の義です。私たちは、罪や問題を抱えたものです。憐れみを必要とし、サポートを必要としている弱い存在です。その事を認めて、握りしめていた手を開くのです。裁きや評価を止め、相手もまた尊い存在として見ることが始まります。本当に兄弟を助け、その目から塵を取り除く助けも出来ます。
「6聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」。
裁く時、相手を「犬」や「豚」のように見下していることがあります。神聖なこと、真珠のように大事な事を教えてやるのだ、「こうすべき」だ、聞く耳を持たない相手がダメなのだ、そう見下したまま、裁いても、相手には届かなくて当然です。
「それを足で踏みにじり、向き直って」
襲いかかってきても、無理はありません。相手を見下して、裁きの梁を振り回す乱暴な生き方は、ますます私たちを引き裂いていきます。そういう道から、まず裁く自分の問題を見つめ、自分も相手も同じように傷つき、憐れみによって助けを必要としている。そうハッキリ見るようイエスは私たちを招かれます。
イエスは誰よりも人を裁ける正しいはずなのに、私たちを憐れみ、受け入れてくださいました。私たちを罪人、滅んで当然の無価値な者と見なさず、
「神の子ども」
としてくださいます。まだまだ問題を抱えた者を断罪せず、表面の問題の根にある、深い孤独、傷、疑いを、御自分の痛みのように、断腸の思いで憐れまれました。そして十字架に架かってくださいました。
正論の梁を振り回す代わりに、十字架にかかられた御自身を差し出されました。「裁くな」と命じただけでなく、もっと深く、現実的な回復を初めてくださいました。「お互い様だから裁かない」と目を伏せるのでなく、私たち自身の問題を認めることから始まる新しい生き方を示されたのです。私たちは、裁きという暴力を手放し、イエスの十字架にすがりつき、自分の問題や渇きを認めます。人をも犬畜生のように思わず、自分も相手も同じように弱く、ニーズを持ち、神の前に尊い存在と見るのです。難しい事です。自分の力では無理です。だから、続く七7でも
「求めなさい。…捜しなさい。…たたきなさい…」。
神の国とその義が、自分の目の前の人間関係の中で果たされるため、求め続ける。それは、実に大胆なイエスのチャレンジです。
ヘンリ・ナウエンは
「これからの指導者は、まったく力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている」
と言います。正しい者が勝ち、間違っていればダメで、裁きを恐れ、背伸びをする、そんな生き方からイエスは解放してくださいました。神の国に生かされるとき、私たちはそれぞれの現場で、自分の正しさ、優位さを手放す、非暴力の態度へと導かれます。裁きたいときこそ、祈りましょう。神は与えると約束してくださっています。
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