2015/07/05 ウェストミンスター小教理問答97「ふさわしいと思ったら大間違い」
Ⅰコリント11章26~29節
シンデレラの二人のお姉さんは、王子様の花嫁になろうと一生懸命綺麗にして、自分こそお姫様にふさわしいとアピールしました。そして、シンデレラには、おまえはパーティに来なくていいわ、とドレスを滅茶苦茶にしてしまいます。でも、そのシンデレラに魔法使いがドレスを着せてくれて、王子様はシンデレラを后に選びます。姉や継母は、自分こそ相応しいと自惚れれば自惚れるほど、自分の醜い心を暴露していましたね。
これは、映画やおとぎ話にもよく見られるパターンです。「自分こそふさわしい、いやいや自分こそ」と言っている人たちはやっぱりダメで、「あんたなんかダメよ」と言われていた主人公が選ばれる、というのですね。実は、教会でも同じ事が起きるのです。毎回毎回の聖餐式のたびに、それが起きています。さっきのコリント書では、
十一27したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
と言われていました。これを「相応しくなければ、聖餐式でパンを食べ杯を飲むことは出来ないのか!」と思っている人も多いのです。でも、それは、イエス様が十字架に掛かって、肉を裂かれ、血を流されて死んでくださったことを思い出しながら、パンと杯を戴きなさいよ、という意味です。
イエス様の十字架の死は、私たちのための死でした。罪に死んでいた私たちを救い、神のものとして取り戻してくださるために死なれたのです。決して、私たちがよいことをしたから、立派だったから、ではありません。もし「イエス様が私のために死んでくださるくらい、私はふさわしい人間なのだ。だから、私には、聖餐に与る権利があります」などと言う人は、イエス様の十字架がちっとも分かっていない、ということですね。逆に、「私はイエス様に死んでいただくには、全くふさわしくないのに、でもその私のために、イエス様は十字架に死んで下さいました。ただただ、イエス様の大きな愛に感謝します」と言う人こそ、ふさわしいわけです。
問97 主の晩餐をふさわしく受けるために、何が求められていますか。
答 主の晩餐にふさわしくあずかろうとする人々には、[第一に]主の体をわきまえる知識について、[第二に]主を糧として生きる信仰について、また[第三に]悔い改めと愛と新しい従順について、自分自身を吟味し、ふさわしくないままで来て飲み食いし、自分に裁きを招くことがないようにすること、が求められています。
主の体を弁える、というのは、今お話しした通りです。主の体は十字架に裂かれました。パンと杯をいただくとき、イエス様の十字架は、私たちにとってはただ勿体ない恵みだったことを知っている必要があります。ふさわしくないことを弁える知識です。
二つ目の「主を糧として生きる信仰」も、自分には立派な信仰がありますと言えなければ相応しくない、ということではありませんね。むしろ、イエス様ご自身によって養われなければ、私たちの信仰は死んでしまいます。私たちはイエス様を必要としているものです。人が食べ物を必要としているように、病人が薬を必要としているように、私たちはイエス様を必要としています。相応しくないほど、弱り、病んでいるからこそ、イエス様の御体につながり、養っていただくことがどうしても必要なのです。
ただね、それは神様に向かって言うだけではないことですね。
主の聖晩餐や礼拝に来る時には、「私はふさわしくないです。神様のもったいない恵みによって救われて、パンとぶどう酒をいただけることを本当に感謝します」と言っているけれど、普段の家庭や学校や仕事では、シンデレラのお姉さんのようになっていたらオカシイですね。お祈りするときは「小さな私を愛してくださってありがとうございます」と言っているけれど、お祈りが終わったら、人のことを馬鹿にしたり、すぐに張り合ったり競争したりするのは、それはやっぱり相応しくないですね。
「[第三に]悔い改めと愛と新しい従順について」とあります。これは、神様との関係だけではなくて、毎日の生活でのことでもあります。私たちが、家や学校や地域で、自分の罪を正直に認めて正直に神様の方を向いて悔い改め、愛をもって生きることが、イエス様が私たちに命じてくださった「新しい従順」です。礼拝や教会と、外の普段の生活を切り離すのではなく、全部が神様の前にある人生の道なのです。そこで、私たちが神様に養われて、愛し合って生きることが、神様の世界に対する目的なのです。
けれども、エデンの園で神から離れて以来、人間は、神を自分から切り離しています。だから、毎日の生活で、人と競争したり、シンデレラのお姉さんたちのように、張り合ったり、見栄を張ったり、意地悪をしたり、するのですね。私も、牧師でもつい、心が焦ったり暗くなったりしてしまいます。イエス様に愛されているのに、心の中で人を見下してしまったり、自分勝手なことを考えたりしてしまいます。でも、イエス様はそういう私を「ふさわしくない」と拒まれるのでしょうか。いいえ、そういう私のために、イエス様は十字架にかかり、よみがえってくださいました。そういう私だからこそ、イエス様を「いのちのパン」として戴く必要があります。そして、イエス様は、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちの生活の中で、悔い改めと愛と新しい従順をもって生きるように、私たちを養い、導いてくださるおつもりなのです。
これは、レンブラントの「天使と格闘するヤコブ」という絵です。ヤコブはとても狡く、自分に自信が持てないで、逃げ回りながら人生を生きてきた人でした。成功して、沢山の家畜を持ちましたが、それでも、その心には恐れがありました。ある夜、神の使いがヤコブを捕まえて組み伏せて、一晩中相撲を取ったのだそうです。ヤコブは逃げられません。神様からもう逃げることは出来ないのだととうとう観念したとき、帰ろうとする御使いにヤコブは言いました。「私を祝福してくださるまでは、あなたを帰らせません」。この言葉を御使いは待っていたのです。今でもそうです。私たちが神様からの祝福、助けを戴かなくては、毎日の生活は、競争や意地悪や嘘でいっぱいになってしまいます。疲れて、心が折れて、人を傷つけてしまうだけです。イエス様の恵みが必要です。イエス様、どうぞ私を養って、あなたに従えるようにしてください。そういう思いをもってイエス様の恵みにあずかりましょう。そのような思いこそ相応しい陪餐です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます