聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

2019-05-19 20:38:26 | 聖書の物語の全体像

2019/5/19 創世記22章1~14節「主の山には備えがある 聖書の全体像15」

 聖書が書き綴るのは、神が

「ともにいる神」

であり、創造されたこの世界に、神が何を願い、どう関わり、どう導くかを現した「神の物語」です。その最初に、神の民を生み出していくために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムを語る上で、今日の22章の出来事はクライマックスだと言えます。百歳になって、神がようやく授けてくださったひとり子を、その神が

「全焼のささげ物として献げなさい」

と命じられるのです。とても理不尽な命令です。神が授けてくださったイサクです。その子を、同じ神が「生贄として献げなさい」という。それは大きな

「試練」

でした。決して「最後には神が止めてくださるだろう」と期待したのでもありませんし、「アブラハムは神への信仰が深かったからわが子も喜んで捧げたのだ」だとしたら意味がなくなります[1]。アブラハムにとって、悲しみや疑いや嘆きが心中に渦巻いたことでしょう。アブラハムは黙々と翌朝早くに旅支度をして、二人の若者と一緒にイサクを連れて出立します。薪も割って、場所へ向かいます。三日目、その場所が見えると、

それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」…

 「私の息子は、あそこに行き、礼拝をして、二人で戻ってくる」というのです。イサクが、

…「お父さん…火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」

と尋ねた時も、アブラハムは「お前を捧げるのだ」と言わないばかりか、暗示的に答えます。

…「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」…

 こうした言葉やそれ以外のアブラハムの沈黙は、彼の信仰なのか、それとも他に言う事を思いつかず、こう言うしかなかったのか。言葉少なに二人は一緒に進み、9節で到着するのです。

 9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。

 イサクは薪を背負って山を登ることが出来たのですから、小さな子どもではなく、アブラハムより体力はあったでしょう。アブラハムが不意打ちで縛ったとか、嫌がるイサクを無理に殺そうとしたわけではないはずです。むしろ、父が捧げる羊の生贄を見慣れていたイサクは、献げ物に託して、主に自分を献げするのが信仰だとその姿から見ていた。だからこの時も抵抗せず、だからこそアブラハムはイサクを祭壇の上に載せることが出来たのだろうと思います。

10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。11そのとき、主の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」

 主の御使いですが

「わたしは」

というのですから、神ご自身でもありました。主は、イサクを刃物で屠ろうとしたアブラハムを止められました。本当にアブラハムがわが子より主を恐れ、主を大事にしていると分かった所で、主はご自分の命令を撤回します。その時、アブラハムは、

13…目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。

 主は雄羊を備えてくださっていた! アブラハムが主に従ってひとり子をさえ捧げた、という以上に、主がアブラハムに犠牲や従順を求める、という以上に、主がご自身で雄羊を備えてくださっていた。それがこのエピソードの大きなメッセージです。ですから、

14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。

 アブラハムの信仰より「主の山には備えがある」がこの出来事の記念なのです。それも、7節8節では、主が羊(小羊)を備えてくださる、という暗示的な言葉でしたが、13節で実際に備えられていたのは立派な

「雄羊」

でした[2]。迷子の小羊ではなく、藪に引っかかっているなんてあり得ない雄羊がいました。アブラハムはそこに主の備えを、それも人の予想を上回る善い備えを見たのです。主は、最高のものを備えてくださる。それがこの出来事だったのです。

 アブラハムがイサクを惜しまずに捧げたのにも勝って、主がアブラハムにもイサクにも惜しみない備えを用意しておられた。いいえ、もとよりイサク自身が、主からアブラハムに備えられた贈り物でした。主の祝福と慈しみ、そしてアブラハムの疑いや裏切りへの赦しと憐れみがあったから授かったイサクです。イサクの子孫がやがて天の星のように増え広がると、神は約束されました。イサクを育てる喜び、家族の笑い、愛するわが子との歳月そのものが主の恵みです。主は恵み深いお方なのです。だからその恵みを通して、ますます主を喜び、崇める。そこに伴って祝福や喜びは豊かにありますが、でも、その祝福や喜びがあるから神を愛する、という関係ではなく、本当に神を恐れ礼拝し、神を神として喜び、従う関係が主の目的なのです。

 この後、アブラハムのように「わが子を生贄に」というような命令は決して与えられません。むしろ聖書は、子どもを神々に捧げて願望を叶えようとする習慣を、非常に忌まわしい習慣として厳しく禁じています[3]。イサクもその子のヤコブも、その子を捧げるよう求められることはないのです。ただ、アブラハムとは違う形で、大事な家族を失いながらも「それでもなお、主を信じるか、主を主として礼拝し続けるか」という問いはいつもありました。私たちの生活でも、失ったり選んだり、変化や試練はつきものです。創世記43章でヤコブが言う

「私も、息子を失うときには失うのだ」

のセリフはヤコブの人生の大事な転換点になります。ヨブ記も、財産や家族や健康、妻の愛や友人からの友情を失ってもなお主を恐れるか、神が願う人との損得抜きの契約関係などあり得るのかをテーマとしています。そして、そういう関係を神は必ず私たちとの間に作り、私たちの心を新しくなさる。それが聖書の物語のメッセージです。

 主は私たちに求めただけではありません。主ご自身も民に(私たちに)にご自身のひとり子を捧げてくださったのです[4]。主はご自身の愛するひとり子イエスを私たちのために生贄となさいました。イサクが薪を背負って山を登ったように、イエスは十字架を背負い、カルバリの丘を上りました。縛られて、刃物で屠られました。主は愛するひとり子を与えることで、神がこの世界にご自身を与えて、惜しみない恵みを現すかをハッキリと示してくださいました。そういう確かな関係の中に私たちは入れられています。そして、私たちもその主の恵みの中で新しくされてゆき、御利益とか祝福のためではなく、主を愛し、隣人を自分のように愛する者に変えられて行くのです。神が求めている関係はそういう、自分を捧げる関係なのですから。

 財産も家族も健康も主からの祝福です。すべて善いものは主の贈り物です。でもそれが偶像になって主よりも握りしめやすい。失わないで済むことを主に期待するなら、それは主への信仰や礼拝ではないし、主が求める人とのいのちの関係でもありません。必ずいつかは壊れたり、失われたり、手を離れていきます。我が子を失う経験も起こります。これからの社会でも沢山の喪失を私たちも体験するでしょう。それでも主を愛する、多くを失いながらも神を神として礼拝する。主以外の全てを失い、時には自ら手放さざるを得ない思いをしながら、でもそれを主が備えて一時でも楽しませてくださったと感謝して、主を礼拝するのです。途中で御心が分からなくても、奪われるばかりのように見えても、「主を信じて何になるんだ」と思いたくなっても、主を礼拝し、誠実に歩み、ハッキリしている御言葉に従っていく。そんな山を登る思いで進んで行く人生には、必ず新しい主の備え、惜しみない備えがあると励まされるのです[5]

「すべての贈り主なる神よ。惜しみない御恵みを感謝します。その恵みを偶像にして、主を二の次にし、失う恐れに囚われてしまうとしても、あなただけが私たちの神です。あなたの備えの素晴らしさを期待して、旅路を続けさせてください。失う悲しみもご存じである主イエスが、どうぞ一人一人を支え、決して失われないあなたとともに歩む幸いに心を向けさせてください」



[1] ヘブル書11章17節以下には「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。18神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」とありますが、ヘブル書11章全体のいくぶん「美化」したとも言える表現であることを心に留めて読まれるべきでしょう。

[2] 7、8節の「羊 שֶׂה」は若い羊、小羊、など羊一般。13節の「雄羊 אַיִל」は、強い羊に特定する言葉です。21章28節などの「子羊 כִּבְשָׂה」は一歳未満の羊です。ちなみに、「雄羊」は生贄とされるときも、大祭司の任職や、年に一度の「贖いの日」の献げ物だけで、特別な儀式用でした。

[3] エレミヤ19:6、レビ18:21、20:1-5、申命記18:10、ミカ6:6-7

[4] ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

[5] 「主の山に備えがある」の「備えがある」は、欄外のように「見る」という言葉です。ですから、いくつもの訳・意味が提案されています。その可能性の一つは「山では主を見る」です。「備え」とは「主ご自身」との出会いである、ということです。これもまた味わい深い提案です。

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