2016/05/22 申命記二五章(1~4、13~19節)「落伍者を切り倒すような」
ちょうど二十年前の今ごろ、東京で三ヶ月だけスーパーでアルバイトをしました。入ってビックリしたのは数字の操作でした。毎週「三割引の日」があるのですが、もとの値段を普段よりも高く設定して、サービスに見せかける。そんなことばかりで、後味の悪い毎日でした[1]。申命記二五章の13節以下で、大小異なる重り石、異なる測り枡を持ってはならない、「完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない」とあります。賞品を売り買いする時に使う重り石や枡を、二種類持って、得になるようにその二つを使い分ける。そういうみみっちい狡(ずる)を禁じていますね[2]。現代、電子機器や技術が発達して、コンピュータで数字の操作が出来ます。お客の目をちょろまかす小細工は次々考え出されます。最近の大手自動車メーカーによる、燃費データの検査のが不正も、まさにこれでしょう。
16すべてのこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。
1.不正の禁止
この二五章で扱われているのは、様々な不正、不公正だと言えるでしょう。でも、その具体例が一つ一つユニークです。最初の1~3節では、裁判で争いに判決が下されたとき、有罪の人を鞭打ちにする場合のことが書かれています。その時も、どれほど鞭打たれても良いわけではなく、伏させて、裁定人の前で、罪に応じた回数の鞭打ちに止めなければならない。どんなに多くても、四〇回以上鞭打ってはならない、と言われるのです。私の頭に思い浮かぶのは、昔は、悪い人間が捕まったら、保安官は「好きなようにしろ」と言って立ち去る場面です。後はどれほど鞭打たれようと、拷問のような目に遭おうと、それは自業自得だ、というわけです。しかし申命記はそういうやり方を許しません。彼の前で、犯罪に応じた鞭打ち、それも決して四〇回を越えてはならない、というのです。そしてその理由が、最後に付されています。
3…あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。
有罪が決まった相手であっても、「兄弟」と見なせ、というのです。決して「大目に見て許してやれ」とは言いません。「どんな罪でも見逃せ」ではないのです。二二章や二四章で見たように、姦淫や誘拐は処刑なのです。ここでは、そういう重罪や刑事犯でなく、「人と人との間で争いがあり」という民事訴訟です。有罪でも鞭打ちが相応しい争いです。そしてその場合に、感情や怒りに任せて、相手をいくら卑しめて構わないと鞭打ってはならない、と歯止めをかけるのです。相手が自分と対等の人格ある人間だと忘れてはならない。更に、
4脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。
臼に繋がれた牛が穀物を踏みながら脱穀をします。踏まれた穀物が臼に入らずに零れるものあるらしいのです。それさえ食べさせまいと牛に口輪(くつこ)を嵌めてはならない、と言うのです。牛にも憐れみを掛けてあげなさい、というのです。使徒パウロは、Ⅰコリント九章でこの言葉を引用しています。それは、自分や教会の教師・伝道者たちが、その働きから報酬を得て、生活を支えられるのは当然であると教えるためでした[3]。そこでパウロはこうも言っています。
Ⅰコリント九9…いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。…
牛のため、以上に、牛にさえ憐れみ深くせよ。同様に、有罪犯さえ過度に卑しめない、袋の中の重り石や測り枡さえ誠実にあろうとする。それは、私たちにとって必要な指導なのです[4]。
2.アマレクの記憶を消し去れ
二五章の最後に、アマレクがしたことを忘れるな、とあります。エジプトを脱出したばかりで疲れている人たちも多かったときに、アマレク人たちがいきなり襲いかかってきました。そして、疲れ切っている落伍者たちをみな切り倒したというのです。何のためにでしょうか。エジプトから出て来て、大したお宝も食料もなかったでしょう。ただ、斬り殺し、弱い者をなぶって倒すために襲いかかった。そういう残酷非情さがアマレク人の精神だったらしいのです。人の命を何とも思わない。弱くて一番後ろから付いていくのが精一杯の落伍者を切り倒して楽しむようなアマレクのあり方を18節で「神を恐れることなく」と言っています。
しかし、17節では、そのしたことを忘れるな、と言っていますが、19節では、
…アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。
と言っていますね。忘れてはならないのか、記憶を消し去らなければならないのか、どっちなのでしょうか[5]。いくつかの読み方が出来るのだと思いますが、少なくとも「アマレクの酷い扱いを赦せ、水に流せ」ではないはずです[6]。かといって、いつまでも根に持って、恨み続けることは記憶に囚われることになります。しかし、この二五章の流れを考えると、どうでしょうか。裁判で負けた方を、好きなだけ鞭で打ちかねない人間の残酷さと、アマレク人の残忍な虐殺とは無関係なのでしょうか。小さな不正を放っておけば、やがて大きな不正、残虐な殺人や暴力にさえ歯止めが利かなくなるのではないでしょうか。アマレクの記憶を消し去るとは、私たち自身の生活や行動で不正をしないこと、自分の勝手な感情や気分や都合でごまかしたり搾取したりしない生き方を命じているように思えるのです。[7]
聖書には皆殺しの危険が沢山出て来ますね。エステル記ではハマンがユダヤ人を皆殺しにしようとし、ヘロデ王は二歳以下の男子を皆殺しにしました[8]。教会の歴史は迫害の歴史でしたし、教会がユダヤ人を迫害してきたのも事実です。そして、あのナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺がありました。普通のよき市民が、家では妻や子どもを愛しつつ、収容所ではユダヤ人をガス室に送り込んだ。人間とはそういうことが出来るのだ、とホロコーストは証明してしまいました。アマレクやドイツ人の事ではなく、今の私たちの生活の小さな不正を止める事なしに、アマレクの記憶を天の下から消し去ることは意味がないのだと語られているような気がします。
3.卑しめられないために
最後にもう一度3節を心に留めましょう。争いで悪かった方で、鞭打ちが相応の人さえ、「卑しめられ」てはならないのです。悪は悪です。罪は罪として報われなければなりません。しかしその報いとは「卑しめられていい」とは違うのです。罪は、人の尊厳を損ないません。私たちが「罪人」だということは私たちの価値が低い、無価値だという意味ではありません。神の目には私たちは高価で尊いと見られています。その尊さを忘れて、虚しい物を追い求めて、罪ある生き方をするのは、勿体ないに違いありません。しかし、だからといって私たちに価値がないのではないのです。どうかすると「自分は罪人だから価値がない」と思うのが信仰的だとか、自分を卑しめなければ傲慢だと誤解される事があります。しかしそうではありません。
キリストは私たちを尊いと見て下さいました。私たちが弱く、落伍者となっても、主はその私たちを滅ぼされても仕方が無いものとは見做されません。決して卑しめさせたくないと、イエス御自身が人となり、私たちの代わりに鞭を打たれてくださいました。人からの鞭も、私たちが自分で自分を卑しめ鞭打とうとする自虐も、四〇回以下どころ何千回でも、御自身に引き受けて、私たちを回復しようとなさる神です。自分を卑しめる言葉や思いは変えられましょう。自分をも人をも、牛や仕事さえも、神が尊いと見ておられる通りに尊び、喜び、誠実に行いましょう。それこそ、ここで強く命じられて私たちに求められている、神の救いのご計画です。
「主よ、あなたが不正を憎まれるのも、私共を祝福に生かすために他なりません。不正が蔓延って、どうせ世界はこんなものだと吐き捨てたくなりますが、あなた様が私共に求められる歩みを聞き取らせてください。あなたは、真実の解放と休息を約束してくださいました。その約束を仰ぐことで、私共が人や自分を貶めず、あなたを恐れ、あなたに倣う者となれますように」
5月は、ヒバリや野鳥のさえずりの季節です。
写真は教会のまわりに多い、イソヒヨドリです。
[1] 同じ頃、スーパーマーケットの裏側を暴露した映画が出来たので、それからは随分改善されたとは思うのですが。
[2] こうは言われても、アモス八5、ミカ六10-12で異なるおもりが使用されていることが責められています! 人間の悪、狡は際限がありません。
[3] Ⅰコリント九9以下「モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。11もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。12もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。13あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。14同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。15しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」この結論と前後を見ると分かりますように、パウロは教会の働きによって、教職者が生活を支えられることを聖書的な権利と見つつ、コリントでの状況を踏まえたときに、その権利を行使せず、他の仕事をして、自分の生活を維持することを選択していました。
[4] 家畜への親切は、二二6-7や、箴言十二10「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である」(新共同訳は「神に逆らう者は同情すら残酷だ。」)。
[5] 新共同訳は分かりやすい文章です。「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。19あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」
[6] 参照、豊田信行『父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て』(いのちのことば社、2016年)、87-90頁。疲れ切って落後していった民を襲って略奪し、切り倒すほどの残虐な行為は、神を恐れぬ行為として厳しく責められます。しかし、その記憶を消し去り、憎しみや怒りの記憶に捕らわれないことも必要です。「記憶を消し去ることを忘れてはならない」であり、「したことを忘れない」とも読めます。
[7] 5節から12節までの「レビラート婚」(ラテン語の「義兄levir」から)や、喧嘩の際の妻による介入については、今回は触れていません。様々な切り口から畳みかけながら、モーセは人の中にある不正や隠し持っているエゴに切り込んで来ます。
[8] 旧約聖書エステル記、マタイ二章を参照。また、旧約と新約の間の「中間時代」には、シリヤの王アンティオコス・エピファネスにより、ユダヤ民族が根こぎにされそうになった歴史もありました。「マカバイ記」参照。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます