2016/05/15 ハイデルベルク信仰問答11「慈しみと厳しさと」ローマ十一章22-23節
ローマ十一22見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたがたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
23彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
「慈しみと厳しさ」。これは二つの違うもののようです。優しさ、親切、温かさとも言い換えられる「慈しみ」と、容赦なく、冷酷で、妥協を許さない「厳しさ」は、どちらかに偏りそうになります。厳しくするか、優しくするか、そのどちらかしかないように思います。けれども、今読みましたローマ書ではそうは言いません。「神のいつくしみと厳しさを」、神は慈しみと厳しさとを両方お持ちです。そして、人は神の慈しみの中で生かされて行くことも出来れば、神に逆らうことも出来る。しかし、神は逆らう者には厳しくあられて、人を倒されますが、そこで不信仰を捨てるならば、また、神の民に継ぎ合わせて戴けるのです。その神の慈しみは、本当に豊かな慈しみです。でも、その慈しみに甘えて、厳しさには目を瞑るなら、本当の神の慈しみも見えなくなってしまいます。けれども私たちは、神の優しさばかりがあって、自分たちのことを大目に見て、罪も見逃してくださって、罰なんか与えず、甘いお方であればと思っているのではないでしょうか。今日の質問も、人間の堕落についての続きですが、こう問いかけます。
問11 しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。
答 確かに神はあわれみ深い方ですが、また正しい方でもあられます。ですから、神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。
神は憐れみ深い方ですが、正しい方でもある。罪とは、神の究極の権威に背くことですから、その罰はやはり究極の罰となると言います。すなわち、永遠の刑罰です。それによって、人間の身と魂が罰せられることを、神の義(正しさ)は要求するのだ、というのですね。だから、神は憐れみ深い方なのだから、人間の罪に厳しくするのはひどい、という言い分は止めましょう。神は正しい方でもあるのです。
でも、ひょっとすると、こんな思い違いをしてしまってはいないでしょうか。神は、憐れみ深い方としての顔と、正しい方としてのお顔と、二つの顔がある。あるいは、優しい顔のお面と厳しい強面のお面と、二つを付けていて、取っ替え引っ替えしておられる、というような、そんなイメージがないでしょうか。もしそうであれば、やっぱり、憐れみの顔だけでいいはずです。怖い顔は捨てて欲しいです。なくてもいいでしょう。
神の正しさと憐れみとは、そういうことではありませんね。私たちが考える時には、分かりやすくするために、慈しみと厳しさとを区別します。その方が、私たちにとって便利だからです。けれども、本当の所、神の慈しみと厳しさとは神の聖なるご人格の、切り離せない両面なのですね。神は聖なるお方です。素晴らしいお方です。だからこそ、私たちにも素晴らしい成長をお求めになります。神に背いている者にも、神の子どもという関係を下さいます。それは素晴らしい慈しみです。そして、だからこそ、その私たちの中にある罪や良からぬ性質を、ほんの僅かたりとも残すおつもりはありません。間違った考えを握りしめたり、少しぐらいは見逃してよと思ったりする勘違いを止めて、神に従う、伸び伸びとした生き方をさせたいのです。
人間の社会でもそうですね。いい審判とは、ルールを曲げたり、反則に目を瞑ったりする審判ではありません。選手が必死に抵抗したり土下座して頼み込んだりすれば、審判がルールを変えてくれるようなゲームは、見ていても面白くないでしょう。あまりに厳しければ確かに詰まらないですけれど、しかし、コーチや監督も、みんながルールを学んで守れるようになり、もっともっとそのゲームを楽しめるように育てたいはずです。よい指導者には、慈しみと厳しさと、その両面があるのです。優しいだけで甘やかすなら、結局、人生を楽しむことは出来ないのです。
イエスを考えてください。十字架でイエスは、私たちの罪を背負って死なれました。その身も魂も、私たちの罪の罰を受けて、苦しみ、打ちのめされて、死なれました。あれが罪の行く末です。イエスの十字架の痛ましさ、想像もしたくない悲惨な死は、私たちの罪の報いです。ですから、今日の箇所は、私たちの身も魂も、永遠の刑罰を受ける、とは言っていません。むしろ、主イエスが身も魂も、永遠の刑罰を身代わりに受けて下さったので、私たちは刑罰から救い出されることが約束されています。これは何と素晴らしいことでしょうか。でも、だからといって、私たちが罪に留まっていてもいい、ということではない。イエスは罪の刑罰から救いたいだけでなく、私たちの生き方を、もっと素晴らしく、正しく、幸せなものとしたいのです。自分勝手に人を傷つけたり、振り回したり、思い通りにしようという生き方を止めさせたいのは当然です。もし私たちが、イエスの身代わりの苦しみを見ながら、自分の罪を握りしめて離そうとしないなら、それはあの十字架の苦しみを踏みつけることでなくて何でしょうか。それは、神の憐れみを求めているのではなく、神の憐れみを踏みにじることです。
しかし、繰り返して言いますが、ここまでの学びで見てきているように、私たちには自分の力や意志や努力で、正しく生きることは出来ませんね。この問答も、私たちに、神の怒りを恐れて、罪を犯さないように頑張りなさい、と教えているのでは決してないのですね。そんなことは人間には出来ません。ここで言いたいのは、それが出来ない人間に、神は情けをかけて、罰しないことにする、という選択肢はないのだ、というだけです。ではどうしたらいいのでしょうか。それは、次の問12からの第二部
「人間の救いについて」
で扱っていく内容なのです。神は、私たちの罪を憐れんで罰しない、ということはなさらず、私たちの救いについて、イエス・キリストを送ってくださいました。神が備えてくださった救いの方法は、憐れみと厳しさと、両面が現されています。でも、その救いに私たちが与るのは、私たちの努力や実績ではありません。ただ、イエス・キリストにある神の恵みです。神は、恵みによって私たちを救いに与らせてくださいます。神は正しいお方でありますから、自らが私たちの罪と御自身の正しさとの間に橋を架けるため、人間が誰も思いつかなかった犠牲を自ら払ってくださったのです。
神の正しさがいい加減だとしたら、嬉しいでしょうか。神が悪を裁かず、私たちの心の罪も拭おうとされず、神の御国にも実は沢山の不正が残っていたらいいですか。いいえ、神は正しく、私たちを憐れみ、罪には厳しく報われます。それは、何よりもイエスの十字架にハッキリと現されています。神が義であることを感謝し、賛美しましょう。
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