2014/07/27 ルカ18章1~8節「気落ちせず常に祈る」(#233)
17章の20節で、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちが聞いてきたことから始まりました教えが、今日の所にも続いています。「不正な裁判官のたとえ」として知られる話です。
2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
この裁判官の所に、一人のやもめ(未亡人)がひっきりなしにやってきて、裁判を求めたというのです。当時は、女性の立場が低いですから、夫を亡くした寡婦は、必死になって自分の生活を守らなければなりませんでした。そこで、しょっちゅう裁判官に掛け合って、
3「私の相手をさばいて、私を守ってください」と言っていた。
のです。神を恐れず人を人とも思わない裁判官も、
5どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来て、うるさくてしかたがない」
と腰を上げたのです。そしてイエス様は言われます。
6主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。
7まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。
不正で身勝手な裁判官でさえ、しつこい裁判の要求には動かずにはおかないのだとしたら、まして、神は、必ずや、叫び求める選民の祈りに、応えてくださらないはずがない、と言われるのです。だから、
いつでも祈るべきであり、失望してはならない
のです。
ただし、以前十一章でも、夜中に友人を叩き起こす喩えがあって、祈り続けることの大切さは教えられていました。ここで言いたい事は、「信じて祈り続ければ、願いは叶う」というような事ではありません 。そもそも、そんな期待をして祈り続けても、願いが叶わないことは沢山あるではありませんか。失望してはならない、と言われても、実際には願いが聞き届けられなくて、ガッカリで終わったのは、祈りが足らなかったから、なのでしょうか。いいえ、イエス様はそんな安請け合いや精神論を仰っているのではないのです。「失望する」は「気落ちする」 、「勇気を失う」 、「落胆する」 、「たゆむことなく」 、などと訳される言葉です 。願った祈りが叶うに違いないと望むよりももっと強く、心をシッカリ持って、前向きに生きることです。そしてそれが、不正な裁判官のたとえを経て、7節に、
まして神は、…選民のためにさばきをつけ…
てくださらない筈がない、と結ばれる勧めなのです。
8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。
不正な裁判官でさえ、やもめのために裁判をしてやろうとしたのだから、まして神は、夜昼神を呼び求める選民のためには正しいさばきを必ずなしてくださる。だから、私たちは、
いつでも祈るべきであり、失望してはならない
のです。信じて何でも願い続けよ、ではなくて、主に望みを置いて、祈るべき、なのです。
熱心に願いを献げ続けたからと言って、どんな祈りでも叶うわけではありません。わがままな祈りではなく、自分のためにでさえなく、大切な事のため、愛する人のため、病気の癒やしや問題の解決をみんなで心を合わせて必死に祈っても、願いとは逆の結果に終わる事は少なくありません。でも、それが今の世です。前回も見たように、神を待ち望まない人々が、
27…食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり、
28…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしてい…
るのがこの世界です。イエス様を信じないパリサイ人が幅を利かせ、神を恐れず人を人とも思わない人が権力の座に着いているのが、昔も今も変わらない現実です。そういう中で、主の弟子たちも私たちも、祈らなくなってしまうことが起きます。神様の正しい裁きなど期待しなくなり、神の国を別世界の事、精神的なもの、心の中のものだと考えてしまいます。確かに、私たちの祈りがそのまま叶って、神様が私たちの思い通りにしてくださる訳ではありません。また、7節の後半は、正確には、
…いつまでもそのことを放っておかれるようであるとしても[神は、…さばきをつけないことがあるでしょうか]。
という意味のようです。いつまでも放っておかれるように見える。けれども、それは神様が無関心だからでもなければ、人間の祈りが足りないからでもありません。神様は必ず裁きをつけてくださるのです。神も正義も信じない方がアタリマエに見えても、やがて必ず主が、正しいさばきをしてくださって、どんな悪や不正についての訴えにもチャンとけりをつけてくださいます。むしろ、問題はそれを信じず、疑って、祈る事もしない人間の側にあるのです。
8…しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。
裏を返せば、地上に信仰が見られなくても、教会の中にさえ待ち望む信仰や正しい裁きを夜昼呼び求めている選民がなくなっていたとしても、それでも主は来られるのです。正しい裁きをなさるのです。主は王であり、力あるお方です。やがて、全世界を新しくなさる全能の主です。私たちの祈りが叶わなくても、それは主が弱いとか無関心だとか祈りを聞かれていないからではありません。私たちが願う以上の大きく素晴らしいご計画を神様がお持ちだからです。放っておかれるように思えるほどの長いスパンで、神様がご計画を進めておられるのです。
そして、その神が私たちのうちに御業を始めてくださいました。王であるイエス・キリストが来られて、神の国を始められました。それは、私たちが神を信じ、御言葉に従うように変えられていく、御業です。周りが神を信じず、日常の営みに追われている中で、神を待ち望み、財産だの名誉だのではなくて、私たちのために苦しんでくださった主イエスにのみ、私たちのいのちがあると信じるように教え、導かれています。あらゆる願いを祈りつつ、でも、それを叶えてくださるから信じたり祈ったりする信仰ではないのです。この世界は遅かれ早かれ、過ぎてゆくのです。私たちも人生をより良くしようと努力はしますが、それが私たちの究極の願いや目的ではないのです。神の正しい裁きが来て、世界が全く新しくされることをこそ、私たちは待ち望みます。
だから、その神様にあって、私たちが失望せず、勇気を持って、顔を上げて歩むために、祈ることが私たちのために必要なのです。ニュースで知る不正や暴力、不公平や悪に、心を痛めて、日夜、主の正義を叫び求めること、そして、どんなことが起きても失望せず、待ち望んで、私たちの不信仰よりも強いお方、主イエスを信じるために、いつでも祈ることが必要なのです。
「あなた様の正しさ、力、御真実により、失望を追い払ってください。祈らないから心が荒むのです。祈らずにはおれないよう私たちを揺り動かしてください。呼び求めずにはおれない生活としてください。そうして顔をあげて、正義を果たされる主のおいでを迎えさせてください」
文末脚注
1 とはいえ、十一章の喩えにしても、どんなことでもしつこく祈れば叶う、という勧めではなく、「聖霊を下さる」(13節)と閉じられるものでした。どんなことでも祈り続ければ叶う、というような、人間本位の祈祷論は、聖書にはありません。
2 文語訳。
3 Ⅱコリント四1、16。
4 エペソ3:13。
5 Ⅱテサロニケ3:13。
6 ガラテヤ6:9でも「失望(せずに)」と訳されています。
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