聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答92~94 使徒20章7~12節「七日目から八日目へ」

2019-03-31 16:35:46 | はじめての教理問答

2019/3/31 使徒20章7~12節「七日目から八日目へ」はじめての教理問答92~94

 今日の聖書箇所は

「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」

と書かれて始まっていました。教会が、週の初めの日曜日に集まっていたことが記録された資料でもあります。旧約の時代は土曜日が

「安息日」

でしたが、キリスト教会が土曜日に集まっていたという記録はなく、週の初めの日に集まった記録が、今日の箇所の他に、何カ所か残されています。仕事は休めませんでした。週はあっても奴隷には休みなどないのが社会でした。最初のキリスト者の多くは奴隷だったと言いますが、日曜日も土曜日もお昼は働いて、夕方から集まったのです。キリスト者たちは、一日の仕事を終えてヘトヘトな中、集まっては礼拝をしていました。疲れて眠った青年が窓から落ちたのは、そんな事情もあったでしょう。礼拝中に眠るのが不謹慎とかいう以前に、それでも集まっていた事実に驚きます。集まらなければならないのではなくても、週の初めの日に集まるようになったキリスト者の礼拝、熱心に驚かされるのです。

問92 キリスト教の安息日は、何曜日ですか?

答 週の最初の日、主の日と呼ばれる日です。

問93 どうしてその日は、主の日と呼ばれるのですか?

答 その日に、主イエス・キリストが死者の中からよみがえったからです。

問94 主の日は、どのように守らなければなりませんか?

答 日々の働きを休み、神さまを信仰深く礼拝しなければなりません。

 週の最初の日は、キリスト教の安息日です。それは「主の日」と呼ばれるのは、主イエスが死者の中からよみがえったからです。イエスがよみがえられた日が、キリスト者の安息日です。イエスの復活を記念して、キリスト者たちは集まり続けて、やがて、キリスト教が公認された4世紀、ローマは毎週日曜日を、礼拝のための休日としました。今私たちのカレンダーが、日曜日はお休みとなっているのは、ユテコや奴隷のキリスト者たちが日曜日ごとに、仕事を終えてからでも集まって、イエスの復活を覚えて礼拝を続けていたからです。ですから、私たちは主の日を

「日々の働きを休み、神様を信仰深く礼拝」

するのです。そしてそれは、十戒の第四戒で

「安息日を覚えてこれを聖としなさい」

と言われていたのと同じ、週に一日を休むことに通じます。第四戒も、決して私たちを縛り付け、不必要な義務を課するものではありません。「休み」によって、私たちの生き方が変えられるのです。週に一日を、あえて仕事をせずに、主の創造と救いの御業を覚えることで、私たちの生き方が大きく息づくことが出来るようになるのです。

 旧約の時代も、安息日は、天地の創造と、出エジプトの解放という過去の出来事を覚えるだけではありません。それは、今ここでの自分たちの歩みを変えるものでした。そして、新約の時代の今、主の日は、かつてイエスが日曜日に復活したという過去を振り返るだけではやっぱりありません。イエスは私たちのために救いを成し遂げて下さいました。私たちが日曜日を礼拝の日として休むのは、イエスの復活だけでは不十分で、私たちが日曜日の礼拝や教会の活動を守らなければならないから、では断じてありません。イエスの復活は、私たちの完全な救いの宣言です。私たちは今、既に、奴隷や中途半端なキリスト者ではなく、成長途中ではあっても完全な神の子どもです。そして、これからも神は私たちを神の愛の中に捉えてくださいます。今も沢山失敗をするでしょう。回り道や間違いもするでしょう。それでも、イエスは私たちの救いを完成して下さいましたので、最後には、神の御国に必ず迎え入れられて、永遠の喜びに踏み出します。そのことが約束されています。確かな希望があります。そこまでイエスがともに歩いてくださるのです。その事も、主の日には覚えるのです。

 このイメージに、安息日が「第七日」から「第一日」になったよりも、「第七日」の次の日、「第八日」になったと考えるのも役立つでしょう。聖書の中で「七」が完全数だというのは有名です。神は世界を六日でお造りになり、七日目に休まれました。七はあちこちで、完成、完全を示す数です。でもそれにもう一つ足した「八」は、新しさ、次の始まり、来たるべきもっとよいものを現すのです。イエスの復活は、七日目の安息日が相応しいかと思ったら、土曜日ではなく、翌日でした。それは、私たちの救いが将来完成して、新しい世界が始まることを見つめさせます。聖霊が降臨したのも、七日目ではなく八日目でした。それは、新しい神の民の誕生の先触れでした。聖書は、今のこの世界が、六日間で作られ、七日目の安息日を過ごしていると言って始まります。そして、やがてこの長い七日目は終わって、永遠の八日目を迎えるのです。その日が待っていると保証するのが、今ここで過ごす八日目、つまり

「週の初めの日」

の安息日です。

 イエスの復活は、神が私たちのために一方的な恵みを注いで、新しい民となさったことを証ししています。神は、人の罪よりも強い赦し、死よりも強い命を、私たちに約束されたのです。痛みや苦しみや悩みはありますが、それが世界だと、諦めるのでなく、八日目に向けて、励まし合って、正直な関係作りをしていきます。いや、新しい八日目が来ると思わなければ耐えられないような痛ましい出来事や暴力があります。それでも、そういう中で、日曜日ごとに、私たちは仕事や遊びを脇に置いて神を礼拝するのです。

 日曜日、私たちは主の復活を記念して、礼拝に集まります。教会でともに御言葉に聴き、賛美をし、交わりを持ちます。イエスの復活を思い、将来に約束されている希望を思い、今がその旅路である事を思います。ですから私たちは、将来に希望を持つことが出来ます。未来に対する不安や、今の悩み、迷いや後悔はありますが、それでも私たちを導いてくださる神の御手を信じることが出来ます。人や自分を責めたくなり、後悔があっても、最終的には神が全てを益として下さると信じることが出来ます。今ここで、イエスがともにいて導き、成長させて下さること、教会や世界の兄弟姉妹と一緒に旅を続けて行ることを思い出します。その時、私たちは命がよみがえる思いをします。ユテコの復活にも匹敵する体験です。日曜日、手を休めて、神を礼拝するのはそうした恵みがあります。今の日本では、旧約時代やキリスト教公認後のヨーロッパよりも、日曜日を丸一日休むのは難しいかもしれません。それだからこそ、私たちが奴隷のように使われて、振り回されて生きるのではなく、自由な者として礼拝を選び、イエスの復活を思い、共に祝う将来を信じるキリスト者として生きるようにと招かれているのです。

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