2019/1/13 使徒の働き3章17~26節「預言者イエス」」はじめての教理問答70、73
「キリスト」とは「油注がれた者」という意味の言葉です。油を頭に注ぐのは、神様がその人を、神の国のために特別な立場に着かせることを表しました。いわば、神様の任命式、就職式が「油を注ぐ」という式だったのです。キリストとは「油を注がれた人」という意味のギリシャ語で、ヘブル語では「メシア」です。聖書では、油を注いで任職されたのが、預言者と祭司と王の三つの働きでした。そこで「キリスト」もその三つを手がかりに考えることが出来ます。今日はその最初の「預言者」です。
問70 キリストがあなたにとって預言者であるとは、どういうことですか?
答 キリストはわたしに、神の意志を教えてくれます。
問73 どうして、あなたには預言者なるキリストが必要ですか?
答 わたしは生まれたままでは無知なものだからです。
預言者は「予言者」ではありません。「予言」は「予めの言葉」、未来の予告です。聖書の預言は、言葉を預かる、即ち、神の言葉を預かって語る事です。その内容に未来の話が入ることもありますが、大事なのは神が何と仰っているかを人に伝えることです。預言者は未来を知っているわけではなく、神が教えてくださる言葉を預かって、届けるのが預言者です。そこでここにも、
「キリストはわたしに、神の意志を教えてくれます」
と書かれています。キリストが私にとって預言者であるとは、私に未来の出来事を教えてくださる、ということではなく、神の意志を教えてくださる、ということなのです。そしてそれが私たちに必要なのは、
「わたしは産まれたままでは無知なものだから」
です。神の言葉を語ってくれる預言者が、どうしても必要なのです。
今日の「使徒の働き」三章の最初にも「無知」という言葉が出て来ました。
使徒の働き三17さて兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています。18しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。20そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。21このイエスは、神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。22モーセはこう言いました。『あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。23その預言者に聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。』
これは、ユダヤ人がイエスを十字架につけて殺したことを指しています。神の子キリスト・イエスを人々が十字架につけて殺したのは「無知」のせいでした。「無知」であるということは時に大変な暴力を引き起こします。イエスを殺したり、人を踏みつけ、間違って取り返しのつかない悲惨な出来事を引き起こしたりしかねません。私たちは、大事なことを教えてくれる教師を必要としています。そして、ここに書かれているように、神は昔からたくさんの預言者を立てていました。旧約聖書には、二十名以上の「預言者」が登場します。彼らは神の意志を人々に伝えました。神は、多くの人に油を注いで預言者として、民衆や王たち、時には外国人に、神の言葉を語ったり、病気を癒やしたり天から火を降らせたりする奇跡を起こして、神の意志をハッキリと示しました。神は預言者たちを通して、神の意志は何かを分かるように示してくださったのです。
そして、同時に
「あらかじめキリストとして定められていたイエス」
「神が昔からその聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時」
ともありました。預言者たちは、やがて回復の時が来る。キリストが遣わされる、それは万物が改まる時、全てのものが良くされる時。そういう時がやがて来ると預言していたのです。モーセが
「私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる」
と言っていた。その預言者が、イエスだと言われています。イエスは、旧約時代の預言者の続きで現れた預言者という以上に、その預言者たちがずっと語っていた、偉大な約束の預言者です。イエスこそは「あの預言者」と言われるキリストなのです。
かつての預言者も、ただ言葉を伝えるだけではありませんでした。奇跡を行ったり、時にはボロボロの着物を着たり、変わった行動を取ったりして、その生き方そのものを通して、神様を示しました。預言者自身が、神の言葉に聴く人でした。偉そうに神のお告げを語るのではなく、神の言葉を聴いてたじろいだり、抵抗したり、反論したりして、神と取っ組み合った人たちです。旧約聖書には、そういう預言者たちの生き方がたくさん出て来ますから、ぜひ注目して読んでみてください。預言者たちの生涯そのものが、ドラマであり、神と人間との関係、そして、私たちに対する神の意思を教えています。
同時に、聖書には「偽預言者」に対する警告も沢山書かれています。神が遣わされたのではないのに、神から遣わされたと自称して、間違った教えを語る人。あるいは、上手に神の言葉を教えながら、本当の話にちょっと嘘を混ぜて、間違った教えに引き込もうとする人。そういう「偽預言者」に騙されないように注意しなさい、と警告する言葉も聖書にはたくさん出て来ます。偽牧師、偽キリスト、偽預言者に注意しましょう。預言者や神の代弁者を自称して人を引きつける人はまず疑いましょう。私たち自身、聖書を知っている自分は他の人よりも偉いのだ、物知りなのだ、と思うとしたら、偽預言者に近くなるのであって、イエスを預言者とする告白からは遠くなってしまう事です。
実は、イエスも偽預言者と言われました。人々を騙して先導する危険人物だという罪状で殺されたのです。けれども、イエスは聞こえのいい言葉で人々を騙して自分の方に引き寄せる偽者ではありません。イエスは、その言葉通りに生き抜かれました。イエスは言葉だけでなく、力や行い、その人となり、すべてにおいて神の意志を表したお方です。イエスを見るとき、私たちは神を見ます。イエスは神の言葉そのものです。口先で丸め込むのではなく、黙って、ご自身を十字架の苦しみの死に任せました。神が私たちをどれほど大事に思ってくださっているかをイエスはハッキリと証しされました。
私たちは、イエスを必要としています。偽預言者にコロッと騙されかねないような、危うい私たちです。神様が遣わしたイエスを信頼しきれば良いのに、つけ込まれる隙があります。だから、イエスの前で静まって、イエスの教えを聴くことがどうしても必要なのです。
聖書のエピソードを一つ思い出します。イエスがある姉妹の家を訪ねたとき、妹のマリアはイエスの足元で、イエスのお話しをじっと聴いていました。もてなしに忙しくしていた姉のマルタが、ただ聴いている妹を非難したとき、イエスは
「必要なことは一つだけ」
で、マリアの「聴く」姿勢こそがそれだと仰いました。奉仕や働きも大事です。けれども何より必要なのは、イエスに聴くことです。まずイエスの言葉に聴く。静まって、聖書の声、語られている神の御声に心を傾けることが、私たちには必要なのです。イエスが私たちに語ってくださり、真理を届けてくださっています。
キリストが「預言者」であるのは、私たちがイエスに教えられること、イエスを通して神の御心を知る必要がある、私はイエスの弟子だ、生徒だ、という謙虚な姿勢と表裏一体です。
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