聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答147~149 イザヤ書65章17~25節「新しい天と新しい地」

2019-10-01 16:06:09 | はじめての教理問答

2019/9/29 イザヤ書65章17~25節「新しい天と新しい地」はじめての教理問答147~149

 今日と来週で、「はじめての教理問答」は終わります。最後に扱うのは、世界の最後のことです。聖書は、神がこの世界を造った、天地創造のことから書き始め、最後にこの世界が終わって、新しい天と新しい地をお始めになることで結ばれるのです。そして、その時に、今まで生きて死んだ人が全てよみがえることを語ります。死んで、からだは葬られて、魂が神と共に、あるいは神から切り離された場所に行くことを前回お話ししましたけれども、それで終わりではなく、最後にもう一度体を持つ、というのです。

問147 死んだものの体はもう一度よみがえりますか?

答 はい。終末の日によみがえり、あるものは永遠のいのちを受け、残りのものは永遠の死に罰せられます。

問148 神さまは終末の日、不信者をどうしますか?

答 神さまは不信者を裁き、サタンとその手下たちとともに、永遠の刑罰として火の海に投げこみます。

問149 神さまは終末の日、信徒をどうしますか?

答 神さまは信徒たちに、新しい天と新しい地において、神さまといっしょに住む家を与えます。

 神は、死者全員にもう一度体を与える。とても不思議なことです。信じがたい話です。そんな信じがたい話を、聖書は語っています。最後だけではありません。最初から、神が世界を創造して、人間を作って、体を与えたというのも、この世界にずっと関わってきた、というのもビックリするような話です。

 何よりも、神の御子キリストが、二千年前にこの世界に来て、人間となって、体を持ち、それも赤ちゃんの体で生まれて、成長し、最後は十字架で体を磔にされて、殺された、と語るのです。そして、その三日目に、キリストは体をもってよみがえりました。今もキリストは、体を持つ方として、天にいるのです。そのどれもが信じがたい話です。それぐらい、神はこの世界に手を掛けています。私たちの体も、この世界も、神がいなければ、存在しない特別な作品です。だからこそ、その私たちが死んで終わりであるはずがない。神が私たちを造られたのは、死では終わらない、その先にも続いている目的があるのです。それが、死んだ者も、最後にはみんなよみがえって、永遠に入る、という告白につながるのです。

 その時、ある者は永遠のいのちを受け、残りの者は永遠の死に罰せられます。神は人を本来、永遠の命を持つように作られたのです。しかし、最初のアダムが神に背いた時、人は命の神様から離れて、死んでしまいました。生きてはいても、心が死に、神との交わりを失った暗い状態になりました。それは、神の怒りを受けて、滅ぼされてもしかたのない反逆です。罪の行き着く所は死です。けれども神はそんな人間にも働き続けてくださいます。私たちがもう一度、神に立ち帰って、神が下さったいのちを大事にして、この世界で祝福を受けるよう、働き続けてくださっています。でも、それを受け入れない人、神を信じることも、人を大切にすることも拒み続けて、自分さえ良ければいい、という生き方をする人もいます。先週見たような、金持ちのまま死んで、ちっとも悪びれることがない、という生き方も出来るのです。そのような人は、最後の日に復活しても神には来ようとしない。神の国に入ることは嫌がるのです。

 ここではこう言われます。

問148 神さまは終末の日、不信者をどうしますか?

答 神さまは不信者を裁き、サタンとその手下たちとともに、永遠の刑罰として火の海に投げこみます。

 最後まで自分勝手な生き方、人を踏みつけ、自分が神のように思い上がって生きる人が「逃げがち」することは決してないのです。今は好き放題のまま逃げおおせたり、うまいことやって人生を終わる人もいるように見えて、正義なんてないかのように思えたりするかもしれませんが、聖書は明言します。最後には、正しい裁きがあるのです。逃げ得をする人は決していないのです。勿論、私たちも自分の罪を悔い改めないなら、こんな最後になったでしょう。神は、そうならないように、今、私たちに呼びかけてくださっています。神に立ち帰り、主イエスの贖いを信頼する心を下さる。そういう神の招きに預かっているのなら、将来に対しても、希望を持つことが出来ます。

問149 神さまは終末の日、信徒をどうしますか?

答 神さまは信徒たちに、新しい天と新しい地において、神さまといっしょに住む家を与えます。

 神は、新しい天と新しい地において、神と一緒に住む家を下さる。なんと大きな恵みでしょうね。そういう祝福を下さることが、神のご計画です。先に読んだイザヤ書も、将来にある素晴らしい喜びを語っていました。楽しみ、喜び、という言葉が繰り返されていました。泣き声も叫び声も聞かれない、とありました。百歳で死ぬとかいう言葉は文字通りには受け取らなくていいのかな、と思います。数日しか生きられない赤ちゃんとか、寿命を全うしない老人とか、無駄に労するという言葉で、辛い思い出を思い出す人もいるかもしれません。この言葉はそうした引きつるような痛みをも丁寧に汲み取りながら、そういう悲しみが起きることをもう恐れない将来が来ると語ります。今までの悲しみや苦しみを思い出さなくなるほどの、大きな慰めがあると語ります。また、

21彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。

とありました。働かなくて良い楽園ではないのです。手足を使って家を建て、畑を作り、収穫をして食べる、そういう将来を語ります。仕事や農業も、今は色んな悩みや問題が付き物ですが、神が語る将来は、皆が喜んで働き、耕し、食べたり楽しんだりする永遠が始まる、というのです。体だって、今は悩みになりますね。病気をしたり、人と比べたり、いつまでも若くないことで悩んだりします。眠くなり、お腹が空き、運動神経がもっとあればいいのに、と悲しくなりします。だから、ギリシャ世界では、体を「魂の牢獄」と考えました。体や物質は価値がなく、永遠に続くのは見えない魂や精神だけの世界だ、と考えていました。けれども、天地を作られた神は、私たちの体も、目に見えるもの一つ一つも、すべて価値あるものとしてお造りになりました。今はまだ回復途中で、私たちは問題がない世界など、想像もつきません。でも、この世界の造り主である神は、永遠の世界、永遠の祝福を用意して、私たちをよみがえらせてくださいます。

 その神の約束を信頼して、神に立ち帰って、私たちの歩みをお委ねしましょう。イエスに従って、祈りつつ、御言葉の道を生きていきましょう。死で別れる時があって、体が葬られるお別れで本当に悲しい思いをする時も、その悲しみが終わりなのではなくて、神が終わりの日に私たちをよみがえらせてくださる約束に心を向けましょう。

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