2019/9/15 ヨハネ黙示録1章4~8節「キリストは今どこに?」はじめての教理問答141~143
キリストは、今どこに?いるのでしょう。この質問に皆さんは何と答えますか。今日学ぶのはキリストは、どこにおられるのか、です。教会に来ていない多くの方は、こう思うでしょう。「イエス・キリストは、偉い人だったけれど、最後は十字架に死んだんだから、どこかのお墓に葬られているんでしょう?」
そこで、ここでもこう言います。
問141 キリストは十字架ののちに、墓にとどまりましたか?
答 いいえ。キリストの体は、死から三日目に墓からよみがえりました。
これだけでも、ビックリですね。キリストは、十字架に死んで葬られたけれど、三日目に墓からよみがえった。今、キリストのお墓を探しても世界中どこにも見つけることは出来ない。とんでもない話ですが、キリストは死んで三日目に復活した。本当に体でよみがえって、弟子たちとも出会ったのです。それは、教会にとっての原点の信仰告白です。そして、それは、キリストだけの超自然的な出来事というだけではありません。私たちの命も、神が創造された、この世界の神秘です。「普通、命は死んだらお終い」なのではありません。命は、神が作られた、奇跡です。キリストがよみがえったのは、私たちも死んだらおしまい、ではなく、私たちもよみがえるという証しです。私たちはキリストの復活を思う時に、私たちも死んで墓に葬られても、そこに留まるのではなく、最後にはよみがえらされる、という希望でもあるのです。いずれにしても、キリストの体が葬られたお墓は、世界のどこにもありません。キリストはよみがえったのです。
ではよみがえったキリストは、今どこにいるのでしょうか?
問142 キリストはいま、どこにいますか?
答 天にあって御国をおさめ、わたしたちのために取りなしています。
キリストは、よみがえった後、天に上りました。聖書には、イエスが「神の右の座に着き」という言葉が繰り返して出て来ます。「神の右の座」があるなら「左の座もあるのか?」と思いたくなりますが、「神の右の座」とは神に一番近い地位、神に次ぐ立場のことです。神の王子がつく場所です。キリストは、今、天におられて、神の国を治めています。キリストが天におられるとは、私たちから遠く離れているということではなく、キリストは天の御座で、世界を治めて、私たちのすべてに関わっている、ということです。イエスは私たちと「ともにいてくださる」という聖書の言葉もあります。キリストがおられるのは天の、神の右の座です。しかし、そこから私たちを力強く治めている王ですから、「私とともにおられる」とさえ言うことが出来るのです。
ですからキリストは今、天におられて、全てを治めています。そして、私たちとともにいてくださいます。ここには「私たちのために執り成しています」と書かれています。「執り成す」。私たちと神様との間に立って、私たちを結び合わせてくださっています。私たちが罪を犯して、神の義に適わないことをしても、キリストが私たちを受け止めて、神との関係を支えてくださり、神は私たちを受け入れてくださるのです。私たちが祈る時、私たちの小さな祈りも、キリストが執り成して、神に私たちの祈りを届けてくださいます。キリストは、私たちと神との間を完全に取り持ってくださるのです。
ヘブル7:25…イエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
執り成しをしてくださっている。それは、本当に有り難い、私たちにとっての希望です。ただ、天で治めているだけでなく、私たちのために、神との間に立って、神に近づかせてくださるのです。ですから、私たちは今ここで、キリストの御支配を信じます。キリストの名前によって祈ります。私たちには分からないことは沢山ありますが、そのすべてを治めておられるイエスを信頼して、祈り、歩んで行くのです。
では、キリストが天で私たちを治めている、ということで終わりなのでしょうか?
問143 キリストはふたたび来ますか?
答 はい。終末の日に、世を裁くために来ます。
キリストは、もう一度この世界に来られます。かつて、二千年前にこの世界にお生まれになったイエスは、今、天におられて、やがて再び、この世界に来られるのです。そして、その時に世界を裁くのです。この事については、また来週、詳しくお話しします。今日は、この事だけを覚えましょう。キリストは、もう一度、この世界においでになる。今私たちがキリストを信じるのは、この世界の現実については諦めて、キリストに希望だけを置いている負け惜しみではありません。今ある色々な悪や問題に、神は何もしてくれないまま、悪い人は逃げおおせることは決して出来ません。神は、すべてを裁いて、明るみに出すのです。その事を信じながら、恐れ慎んで、生きていくのです。
今読んだ黙示録の言葉にも、重ねてこのような言い方が出て来ました。
ヨハネの黙示録1:4…今おられ、昔おられ、やがて来られる方…
ヨハネの黙示録では、この事を何度も繰り返しています。ヨハネの黙示録は、キリスト教会にとって、ローマ帝国からの攻撃がとても強くなっていった時期に書かれました。教会にも、冷たさや人間関係のもつれや、パワハラやゆるみが入ってきていました。そういう中、黙示録は、キリストが今もおられ、昔おられ、そして、やがて来られるお方だと何度も繰り返し語るのです。私たちがキリストを信じるのは、日曜日だけの礼拝の事ではありません。昔、キリストが語った素晴らしい教えを忘れずに生きていきましょう、ではありません。今、キリストが天におられることに目を仰いで、祈りながら生きていく、それだけでもありません。キリストは、墓にはおられずよみがえって、今も天におられます。天で神の右の座に着いて、私たちのために執り成してくださっています。そして、必ず再び世界に来て、すべてを裁いて、新しい国を始めるのです。
どうでしょう。そう信じる事は、私たちの生き方のどれほど頼もしい土台ではありませんか。将来にキリストが再び来る日が、すべてが白日の下に晒される日が来ると信じて今を生きていけることは、そういう将来があると知って進んで行くことは、生きることをどれほど喜びに変えるでしょうか。キリスト教信仰は、たんなる教えや、今の慰めや、日曜日だけの平安ではありません。むしろ、私たちの毎日の生活の全てが、イエスの執り成しに対して信頼し、やがて来られるイエスへの希望によって新しくされることなのです。
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