■【きょうの人】 0323 ■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家 ■ 西行 歌人としてだけではなく鳥羽院の北面武士でもあった
本日、ゆかりの人をご紹介します。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。
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■ 西行(さいぎょう) 歌人としてだけではなく鳥羽院の北面武士でもあった 2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で清盛の友人として俗名佐藤義清(さとうのりきよ)として、西行が登場しました。鳥羽院の北面武士として奉仕していたので、清盛との交流もあったでしょうが、現実にはその期間も短かったようで、清盛と昵懇にしていたという記録は定かではないようです。 和歌に通じた人として知られていました、保延6年(1140年)23歳で出家して一時は円位を名のっていました。 出家後は心のおもむくままの生活をし、あちこちに庵を持ちました。また弘法大師の遺跡巡礼も兼ねて諸国を巡る漂泊の旅にも出ました。日本各地に、多くの和歌を残しています。 しきたりや伝統にとらわれず個性の歌人という説があるが、正しい見方ではないようです。院政期の歌風醸成の一人で、藤原俊成とともに「千載集」の中の一人として見るべき人のようです。 東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏を訪れる途上で、鎌倉に立ち寄り源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されています。 享年73歳、文治6年2月16日(1190年3月23日)没。 【Wikipedia】 西行(さいぎょう) 元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。 |
■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家
きたおおじ ろさんじん
1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日
篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持つ、日本の芸術家で、本名は、北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)といいます。
魯山人は、母の不貞によりできた子で、父は割腹自殺、生後すぐに里子に出され、養家を転々としました。この鬱屈は、終生払われることはなく、人格形成に深甚な影響を及ぼしたといわれています。
傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、横山大観をはじめとする戦前を代表する芸術家・批評家などを容赦なく罵倒しました。
いっぽうで、その天衣無縫ぶりは、吉田茂などから愛されるという人物でもありました。
その気難さは、お手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」という話も残っているほどです。
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