『ほんまに「おいしい」って何やろ?』吉宏吉弘 集英社
ニュースの記事に目がいった。
私自身は「これは必ず食べる!」とか「死ぬまでに味わいたい!」といった食に対する願望は薄いほうだ。「何か食べたいものない?」「どこか食べに行きたいところない?」と聞かれても意気込んで答えることは殆どない。
だから、予約がとれない店があるということも知っていたが、それが日本のどこにあって、どれだけの費用なのかなど知る由もなかった。
ひとり5万円とか7万円。
ホテルのレストランとかワイン入れると高かったりするし、そんなものなのかなあ。そういえば、昔むかし、娘と東京のホテルに泊まったとき、よせばいいのにホテルのレストランに入って食事をした。ウエイターがワインを勧めてきたので、適当に選んでもらった。会計のときに値段が想像以上だったので内心びっくり。ワインが高かった。食事はまあまあ不可もなく。
それいらいホテルのレストランで食事をとりワインをいただくなど滅相もない、といった気分でいる。
脇道に逸れた。
確かに狭い店で定員10名か8名だったら、すぐに予約が埋まってしまうだろう。次の予約を取っておかないと今度はいつ食べれるのか?といった切迫感もあるだろう。そしてここではこんなに美味しい料理を食べることができたぞと自慢もしたくなるだろう。インスタにアップしたくもなるだろう。それだけのお金を払っているのだ、と。
それはそれで美味しいものを味わう、味わい方の選択の一つだと思う。しっかり平らげて「あぁ、美味しかった!」と最後に言える醍醐味だと思う。
村田さんが言うには独立するなら価格設定を25000円ではなく、せめて15000円からにしてお客がついてきたら、上げるのがいいのではないかと。
まあ、何かの記念日とか、年に一回の贅沢だとして15000円のお店に行くという人もいるだろう。私は5万や7万といったお店には死ぬまでに一度も行けないだろうね。でも行けないからといって今後の人生になんの障りもない。
よく「死ぬ前に何か食べたいものを、と言われたら何を選ぶ?」という問いがあるが、わたしは悩む。絶対これだ! というものが思い浮かばないからだ。
また話が逸れた。
村田さんが危惧しているのは、料理人としての立ち位置、姿勢がこのままだと崩れていくのではないかということだろう。高い素材を探し、素材を生かす技量もあるだろうが、狭い世界だけでその料理の腕を使っていていいのだろうか? もっとより多くの人にその技を見せていくのが必要じゃないかということだろうなあ。よく読むと、村田さんはそういったお店を営んでいる方を除外しようとしているのではなく、食材の見聞きや努力は認めていて、それがもっと沢山の人に享受してもらえるような提供の仕方を模索すべきではないか、と言っている気がする。
それは料理人としての後継者への道筋を考えてもらいたいという厳しくもやさしい目線でもあるなあ。
読みかけの土田康彦氏の『辻調すし科 先生といた日々』を開いて読みたくなった。
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