(餅鉄 東北産)
先日の懇親会で製鉄および鉄器ならびに刀剣製作の話題となり、
私と刀工康宏師と刃物師左久作師との間で意見が分かれた。
概要を記すと以下だ。
私:超古代製鉄は赤色褐鉄鋼、リモナイト系(赤土を原料とする)
→餅鉄→砂鉄。西暦1世紀頃の原初段階から国内では製鉄
が行なわれていたが、炉の構造により風化が進行し、遺跡が
発見されていない。古代製鉄は舶載鉄が主軸ではなく、当初
から国内製鉄は行なわれていた。餅鉄から砂鉄への原材料
採取の変化は、大陸半島情勢に起因する政治的要因(白村江
の敗北)による準鎖国国風文化と国防急務の政治要件が一つ、
もう一つは鉄鉱石探しよりも土砂流しによる砂鉄採取の簡易性
が一つ。効率のよい砂鉄製鉄が主軸となった時期が教科書的
には日本の古代製鉄の開始とする所以はそこにあり、まず砂鉄
ありきのように設えられたが、本当は赤土→褐鉄鋼→鉄鉱石→
砂鉄という流れが日本の製鉄の歴史だろう。
鉄鉱石を使用した作刀例は、砂鉄時代に、失伝したかつての
鉄鉱石原料からの製作を試みたもの。例:山浦真雄等。
康宏・左久作:餅鉄からの日本刀製作には疑問。実際には砂鉄を
原料として作刀したのではないか。隕石から実際には作刀は
不能で、砂鉄を主原料としてごくほんのわずか隕石内部の残
量鉄部分を混入した物を隕鉄を原料とした刀剣であると言う
ように、実際には餅鉄を刀剣の主原料とはしなかったのでは。
まあ、本当のところは誰も分らないから研究者も現場の鍛冶職も
四苦八苦しているのではあるが、私の場合は製鉄を行なっていない
ので、あくまで民間研究者としての耳学問と自己思考の域を出ない。
ただ、実際に餅鉄と砂鉄からの小たたらによる自家製鉄において
鉄の生成の歩止まり具合までデータを取っている備前鍛冶も現に
存在するわけで、餅鉄が刀剣材料になることは私は疑う余地はない
と思っている。餅鉄から刀剣ができないというのであれば、存在
する餅鉄は、ではあれは一体何の為に採取された物であるのか、
ということにもなりかねない。
そして、製鉄の際の歩止まりの問題(製鉄自体は餅鉄のほうが
歩止まりがよいが、原料の量確保としては採算性が悪い)もある
が、そもそもが餅鉄も砂鉄も同じ磁鉄鉱であり、乱暴に言えば、
餅鉄状の物が風化したのが砂鉄、固まったままのが餅鉄とも
いえる。本質的には同じ物だ。
餅鉄はそのまま丸ごとおにぎりのような状態で炉に放り投げても
還元はしない。砂鉄状にサラサラになるまで粉砕してから炉に
入れないと還元して鉄とはならない。
その加工工程を一気に省けるのが砂鉄の存在であり、砂鉄の発見
とその砂鉄製鉄の技術は、効率性において中央権力はどうしても
手中にしたくてしかたなかったことだろう。ゆえに、古代における
日本国内各地での衝突が発生したし、各地で行なわれていた製鉄
技術の争奪戦が繰り広げられたと私自身はみている。
実際のところ、砂鉄製鉄が主軸となり、国内のその技術をほぼ掌中
にした時期が「日本の製鉄のはじまり」と歴史教科書では謳われて
いるのではないか。日本の製鉄の開始が6世紀だなどというのは、
各遺跡等の関連から考えにくい。
また、私自身は輸入鉄主軸で日本の古代鉄器が作られたという説
には否定的だ。刀剣においても、舶載鉄が古刀時代の主軸をなした
という説は完全に私は否定している。そういう意味では九州の刀剣
研究者の大村氏の説には真向から対立する。
しかし、従来にない視点で鋭く斯界にメスを入れ、可能性の問題と
して多角的に研究されている立脚点に感服するので、その研究姿勢
に敬服して説の展開に注目している。固定的観念の呪縛に絡め
取られた金太郎飴はもう沢山、という感慨があったからだ。
私自身の所見としては、赤土→褐鉄鋼→餅鉄→砂鉄というものが
日本の国内製鉄の歴史的流れであり、とりわけ磁鉄鉱を主とする
段階で国内製鉄の基礎が固まったというものだ。
また、歴史的民俗学的見識としては、日本における「赤=朱の文化」
というものは、南方系文化の移入であり、原初的な系統に属するの
ではと踏んでいる。丹と朱は切っても切り離せず、ベンガラが支えた
超古代文化、というものを私は見ている。日本における、赤系の
神社、白系の神社の違いは、そのまま超古代の赤文化と中央集権
を狙う派の拮抗を引きずったものではないか、と。
それは、とりもなおさず、製鉄の技術を巡る衝突の歴史であった、と。
ただ、こうした論は、きちんと学術的なところで研究資料を添えて
論証しないと、単なる個人的所見にとどまり、「床屋政談」の域を
出ないことは確かである。
話が逸れるが、たたら製鉄ではない現在の酸素を大量に送り込んで
造られた日刀保の永代たたらによるたたら吹きによってできた鋼
でも、充分に丈夫な日本刀は造れる。日刀保鋼のB2からでも、
造り方によっては斬鉄剣を造ることができる。
これは原材料がどうであるかに完成刀剣の抗堪性が起因するの
ではなく、工法が鋼の質を適正に引き出していることになるだろう。
原料を変えれば完成品が変るのは簡単なことだ。難しい鋼よりも、
古鉄の卸鉄を使えば、作品はより一層古色に近づく。そこに現行
方式ではない製法(推測的な中世工法)を投入したらさらに古刀に
近づく。
だが、古刀に肉迫することと刀身の抗堪性を同時に付与させることは
なかなか同一線上には並ばない。どうしても現代刀工が行なうのは
「再現」という領域に属するため、どれが本当の数百年前の材料と
工法なのかは確定されていないからだ。
古刀が新刀よりも抗堪性が高く、さらに見た目も鉄質が新刀と古刀
では違うことはこれは動かし難い事実であり(一部寒冷地での例を除く)、
このことは原材料と製法のダブルの違いによるものであることは明らか
だろう。
現実に慶長期を境に、ガラリと鉄質が異なるのであるから、それは、
原材料が違う、作刀製法が違う、原材料と作刀製法が違う、という
三種のいずれかの理由によるのは確定的だ。
また、製法についても、材料が違うから製法を変えたのか、製法を
時代的な軍需要求によって変化させざるを得ないために変えて、
それに材料の製造法が呼応したのか、これは卵と鶏のようで、どちら
が先かは不明である。
だが、その不明こそが、日本刀の鉄質の変化の理由の根幹を形成
している。
ただ、いえることは、日刀保の現在の鋼からでも抗堪性の高い刀剣を
作出することは可能であるし、現に藤安将平が日刀保鋼から斬鉄剣
を造っている。これは明らかに工法を変えて鋼を別な方法でまとめて
いる系統に属する。
一つの共通する鍵は「温度管理」と「鍛造過程における酸素量」の問題
であることは間違いないないのだが、まだ定式化は誰もできていない。
確定的事項として断定できるのは、「同じことをやっていては同じ物しか
できない」ということだ。
現在の刀工試験等で行なわれる「伝統技法」は、固定的な江戸期幕末
の一時期から発生した技法を「伝統技法」と規定しているので、その
方法で作刀したならば、その時代の刀の再現しかできない。これは
確定的な事柄だ。砂糖を入れれば料理は甘くなる。
だが、砂糖を入れなくとも素材の甘さを引き出すことにより、本来の
料理の甘さを出すことは現実として可能である。可能であるどころか、
それこそがそもそもの料理における甘味=旨みであったことであろう。
しかし、刀工試験は「決められた事」をこなせないとならない。
英語の入試においてフランス語で解答したならば、それは解答とは
ならず単なる回答であり、いくらフランス語が出来ても合否判定としては
不合格だ。刀工試験は試験科目で「決められた事」で合格点を取らなけ
ればならない。
「大学生になる」ということは、まず大学に合格しなければならず、自主
研究で専門分野を学術的に研究者として深めるのは、まず学籍を取得
してからなのである。
日刀保の鋼よりも自家製鉄の鋼のほうがまとめは簡単なのであるが、
扱いが難しい日刀保の鋼を刀剣にまとめることにはとても意味がある。
それは「固定的一時期の工法にしかすぎない」という相対的な所見を
凌駕するほどに意味がある。
刀工になるには、まず刀工試験に合格すること。
そのためには、現在の刀剣界の先達たちの技法をくまなく学び取ること。
その技法を受験者という稚拙さはあるにせよ、合否判定で合格ライン
まで学習して実力をつけること。これしかない。
「守・破・離」なくして創造は生まれないが、まず最初は決められた事を
こなせないとそこから羽根が生えることもできない。
現代刀鍛冶がすべて優れているのは、作刀に関して、そうした基本的な
事柄をすべてクリアした「資格を持つ者」であることだ。
ただし、これは「作刀に関して」のみであり、「作刀できる者(合法的に
許可された者)」としての一面だけにおいて「優れている」のである。
たとえば大卒者がすべてにおいて学術的見識が深いのかというとそう
ではない、というのと同じで、刀工資格を持っていても鉄や作刀について
見識の低い人もいるだろう。
また、変りようがない人柄というものもある。刀工資格は、あくまでも運転
免許と同じであるだけだ。
それを勘違いして、偉そうにふんぞり返っている現代刀工も実に多いの
だが、そういうのは備後弁では「タコのくそが頭にのぼっている」と言われ、
相手にされない。相手にされる狭い世界でしか通用しない。資格の有無
以前に、人格の問題なので、資格の有無は一切関係ない。
人間的に嫌な奴は、一生嫌な奴のままで人生を終えるものだ。
ただ、そうしたスカ人間が造る作品がスカかというと、これは必ずしも連動
しない。ファシストが演奏する曲が素晴らしいこともあるのが人の世だったり
もする。作品は作品として独立して存在している。
だが、見えることもある。
作者のえげつなさが作品に顕れてしまうこともある。
これは料理も同じで、感じ取る人は感じ取っている。