渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

中心(なかご)の形状

2017年02月06日 | open


左永正時代。右天文時代。

いくら刀は片手刀法が基本だとはいえ、末備前刀というのは
もう少しナカゴを長くしてもよかったように思える。
ただし、この末備前独特の尻の張ったナカゴ形状は、それ
なりに意味があったのだろう。それでも鉄砲伝来以降あたり
から、刀身の延長と共に末備前はナカゴの寸法も伸びては来る。

相州系は初期末備前物とは逆に全体が長く、そしてナカゴ尻が
細く
なっていく形状が多いが、それもそれで何らかの製作意図
あったのだろう。そこには何らかの設計思想があった筈だ。

末期の末備前のようにナカゴ尻が張ったまま全体を長くした
作域の刀工群もいる。
周防国の二王派などはその典型ではなかろうか。

太刀目釘穴があけられているため、打刀を見慣れていると
まるで磨り上げた刀身のように見える。刀銘であるのに、
太刀佩きとして造られたという過渡期的な時代の作で
あろう。元祖斬鉄剣、二王。火事の際に鎖を断ち切って
仁王像を逃がしたという伝説があるが、もちろん童子切り
やニッカリと同じ脚色であろう。
無名の安芸国大山鍛冶は筑州左の末裔と自称してはいるが、
個人的には、地域的な連綿性から、安芸国大山鍛冶は周防国
二王や備後三原鍛冶との技術的な交流があったのではと読ん
でいる。安芸国大山鍛冶の作風は極めて二王に近い。
ただし、これはナカゴ以外の上=カミの部分について。ナカゴ
は末備後刀に酷似している。また末三原にも大山鍛冶の刀身の
作風は酷似している。
美術刀剣界では、無銘極めの際に、出来が良い物は二王とし、
出来が悪い物は三原にしてしまう「三原逃げ」と呼ばれる習慣
がある。
だが、実は、磨り上げられた大山鍛冶の作の多くは、「末三原」
と鑑されてしまっている事も多いのではなかろうか。
私が実見し、手元に預かって詳細に見た大磨り上げ無銘古刀で、
どこをどう見ても私の大山宗重とまったく同じ作者の手筋と観え
る刀があった。地鉄の質、鍛え肌の特徴(単に鍛接肌ではなく、
刃寄りや鎬よりの鍛え目の特徴等)、刃の造り込み、全体像等
どれを取ってもまったく同一作者としか見えない作を実見した。
数十時間毎日見較べて精査した結果、私の見える鑑識眼の範囲では
その古刀と私の宗重は同一作者に観えた。眼前の二作は、いずれも
大山住宗重延道彦三郎の作であろうと。

その無銘の刀は、たぶん鑑定に出したら「末三原」とでも紙が付け
られてしまうことだろう。刀剣界中央は在野の安芸国大山鍛冶など
のことは知らないし、興味がないので、「三原逃げ」をすること
だろうと予想される。

安芸国大山住仁宗重作 天正八年二月吉日(撮影:町井勲氏)
私の差料。




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戦国期の安芸国大山鍛冶については、地方の無名鍛冶ゆえ
刀剣界では一顧だにされていない。
私は、大山鍛冶が「住人」ではなく「住仁」としたのは、
二王=仁王との関連性なり技術的な連綿性を銘に残した
ダイイングメッセージのように思える。
そして、こじつけではあるが、仁王はアナグラムのように
逆転すると王仁=ワニとなる。(私のハンドルの渓流=keluは
うちの初代ポチ1号であるlukeのアナグラム。ルカの福音書
の英語読みのルークである。最初の息子が亡くなってしまった
時に飼いはじめたその犬の名は、犬種名も併せて「地を走る
騎士たれ」として Luke Landwalker と名付けた)

日本の歴史上、ワニとは和仁=和邇=和珥=丸爾のことで
あり、古代産鉄氏族であった。
因幡の白兎が数比べをしたのは鮫であるが、山陰地方では
鮫の事をワニと呼ぶ。因幡の白兎はワニと数比べをしたと
されている。
そして、なによりも、白兎がなぜ数比べをしたのか。
それは、対立するヤマト系と在地先行渡来の産鉄技術者の
勢力を比べ競ったことではなかったか。
ワニ氏は西暦1世紀乃至2世紀に太陽信仰と共に製鉄技術を
日本にもたらした渡来系氏族であるともいわれる。
ワニ氏は、のちに春日氏となり小野氏となった。小野氏以降、
ヤマト政権においては主として大陸との外交官のような役職
に就くことが多かった。

そのように、歴史の伝承譚と氏族の系譜を俯瞰すると、手元に
ある住仁宗重がなぜ私のところに突然やって来たのか、ただ
ならぬエニシのような歴史の運命のいたずらを感じる。私の
血脈のルーツは小野氏であるからだ。つまり私はワニ一族で
ある。私の血の中にはワニの血が流れている。
なぜ私も父も祖父も(その先は知らない)、異様に鉄に執着
したのか不思議だったが、ワニなればと思えばそれとなく得心
がいく。
私の幼い時の「丸い石を必ず拾って持ち帰る」という自分でも
何だか意味が解らない奇癖は、それはDNAの記憶に刷り込まれ
た鉄鉱石探し、古代の餅鉄探しの血脈の癖だったのではなかろ
うか。
とここまで行くと、妄想族の仲間入りなのでやめておこう。
ただ、言えていることは、私も含めて、父も祖父も、何故か
意味は分からないが「鉄」と「刀」に異様に執着していた。
私が幼い時には、父は「銀色に光る溶岩」のようなタタラ鉄を
白いレースの敷き物の上に置いて崇めていた。そんな家庭など
周りを見ても一軒も無かった。
私は「何だ?この光ってる溶岩、磁石がくっつくぞ」とそれで
遊んでいた。父に見つかるとこっぴどく叱られた。幼い私は
意味が解らなかった。それが刀の材料であることは、もう少し
私が大きくなった頃に教えられた。

旧山陽道ぞいにある中世末期の安芸国大山鍛冶集団の鍛錬場所に、
説明看板が建てられている。刀身画像は私の宗重。中国新聞でも
私の取材所見と共に紹介された。私も多少なりとは地方の歴史
研究と広報の役には立っているようだ(苦笑
刀身画像は町井勲氏が日本刀を多くの方に知ってもらうためにと
無償で撮影をしてくださった。



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