渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

今夜も西部劇 絆と対立 〜映画『トゥームストーン』〜 (再掲)

2018年02月01日 | open



ドク・ホリデイ役のヴァル・キルマーが主役ワイアット・アープ役の
カート・ラッセルを鬼気迫る演技で食いまくりの本作だが、ラスト
クライマックスのこのドクと宿敵リンゴ・キッドとの決闘シーンを観て、
ピンと来た方も多いことだろう。













対峙し、超至近距離からの抜刀術=クイックドロウによる決着。
絶対に外さない距離。
抜き撃ちの速さだけが勝負を決める。
速く撃ったほうのみが確実に生き残る。

この距離での西部劇での決闘シーンは類をみない。
これは黒澤明の『椿三十郎』のラストシーンのオマージュ表現だろう。
倒れる寸前の死に行く者に「どうした?来いよ!ほら、どうした?」と
罵るのは日本人の武士ではあり得ない。
それはアメリカンとジャパニーズの精神文化の違いであると同時に、
ドクは宿敵であり自分に酷似するリンゴ・キッドに自分を重ねて、
病死を前にした自分自身に対しての自己否定のニヒリズムにも似た
反駁の煽りでもあったことだろう。
そのことは、ワイアットと最期の病室での別れの時のやり取りにも
表れている。「お前が俺の本当の友人ならば、俺のもとから去れ」と
ドクは最期に言う。
ワイアットは涙を押し殺して「お前は最高の友だ」と残して病室を去る。

ドクとワイアットは性格も生き方も違うが、強い絆で結ばれている。
ドクはリンゴを自分と全く同じ種族で同じ定めを持っているとみて、
「あえて」嫌う。
ドクもリンゴもインテリである。
ラテン語を話し、聖書を知悉し、シェークスピアも解する。
ドクは当時ごくごく一部の者しか進めなかった大学で学び医師(史実は
歯科医師)となっている。多分、裕福な家庭に育ったのであろう。
また、リンゴ・キッドもドクと同じような境遇だったことだろう。
それが今は二人とも荒野の西部に流れ落ちぶれ、ヤクザな生活を送って
いる。常に死の影を引きずりながら。
名前もいつしか本名ではなくドクとキッドという通り名で呼ばれる
ようになった。
ドクはリンゴ・キッドに自分を見た。そしてそれを否定した。
ドクは末期結核で血に咽びながらアープに言う。アープの保安官
バッヂを見ながら。
「それを着けたかったよ」
これは、本当は裏街道ではなく、陽の当たる坂道をゆっくりと上り
たかった心を表したものではなかったろうか。
そして、アープはバッヂをドクに握りしめさせる。
そのバッヂを胸にドクは単独で抜け駆けして決闘に向かう。

リンゴ・キッドと対峙した時、リンゴはドクに言う。
「あんたとはやりあうつもりはない。あんたとはやりたくないんだ」
これは、ドクはリンゴに自分を重ねて自己否定していたが、リンゴは
ドクにやはり自分を重ねたが、同類としての共存意識があったことを
表している。
だが、リンゴに自分を重ねるドクは、リンゴに胸のバッヂを見せて
リンゴに言う。
「これを見ろ!」
俺はお前とは違うのだ、との思いがドクにはあった。
これは、ドクの中に棲む二人のドクのうちの一人に対してドクが決別
を宣言した瞬間だった。
バッヂを見て愕然としたリンゴは、それならばやるか、と覚悟を決める。
リンゴにしてみれば、「ブルータス!お前もか!」と思ったことだろう。

この対峙する二人の関係性は『椿三十郎』で三十郎が室戸半兵衛を
指して「こいつは俺とそっくりだ」として自己否定するのと同質だ。

本作『トゥームストーン』は、ドク・ホリデイが主役の作品ではないか
と思えるほどに、ヴァル・キルマーの演技が冴え渡る。
同じOKコラルの決闘を題材にしたアープが主役の映画では稀代の
名作『荒野の決闘 いとしのクレメンタイン』があるが、あの作品
でもドク・ホリデイ役のヴィクター・マチュアがワイアット・アープ
役のヘンリー・フォンダを食いまくりだった。

『荒野の決闘』と『トゥームストーン』では、ドク・ホリデイのキャラ
が鮮烈に立つのが特徴だ。
『ワイアット・アープ』(1994)では、前年公開の『トゥームストーン』
の轍を踏まぬようにしたのか、ドクの影を潜めさせて、あくまでも
アープを前面に出して演出させている。ドクはあくまで「添え物」と
して。
これはもしかすると、ケビン・コスナーの希望だったかも知れない。
その手の嫌悪は主役俳優において時々見られる。
『眠狂四郎』では、狂四郎と同じ円月殺法を使う天地茂が市川雷蔵
よりも注目され、雷蔵は「どちらが主役か分からない」とかなりの
おかんむりで不機嫌だったのは有名だ。
また、『荒野の七人』では、ユル・ブリンナーがスティーブ・マックィーン
の演技が冴え渡ることに難癖をつけ、同じカットの中に収まることを
拒否した。理由は簡単。マックィーンの演技のほうがずっとキマってる
からだ。マックィーンの演技上の仕草一つ一つにユル・ブリンナーは
文句をつけたという。このマックィーンのキメは作品を見れば判る。
彼は台詞がなくとも顔の表情だけで演技を成立させる数少ない役者の
一人であり、どの役をやっても同じユル・ブリンナーの仏頂面の
ダイコンでは、それはもう端から太刀打ちできない。
だからといって、自分の力不足を自省せずに共演者を逆恨みするのは
お門違いの心得違いだとは思うが、役者などは俺様大将が多いので、
なかなか自分に刃は向かない。
役者というより「芸能人」「芸能者」と置き換えたほうが正解か。
アイドルなどのつけ上がりなどはその典型だろう。
そもそも、オーディションそのものが、他者を蹴落として掴むチャンス
であり、それをよしとする世界に棲む表現者たちは、自分こそが
第一であるという意識を持つ者たちであり、俳優や芸能者・芸能人が
「俺が俺が」とか「あたしがあたしが」という性格を主軸に持つ種族で
あるのはそのためだ。
政治家と芸能人だけは、自己顕示欲の塊でないとやっていけない。

だが、映画で描かれるドク・ホリデイはどうか。
自己否定の塊である。
その自己否定は、完全否定ではない。
あたかも全共闘がテーゼとして掲げた自己否定と同質なのだ。
それは、否定を通して自己解体をし、そこから再構築して真の自分自身
を確立して明るい未来を展望する、という自己否定であるのだ。
『トゥームストーン』でのドクの心はいつもそこにあった。
だが、病魔がそれを阻んだのである。

ドクとリンゴの心の在りかと心境は、彼らが知的であればあるほど
彼らを苦しめたし、また、知的な彼ら同士しかその自己否定とそれを
突破したい希求心などは理解できない。
作品に登場した単細胞で粗野で野蛮なクラントンなどには、絶対に
逆立ちしてもドクとリンゴの心境などは理解できないのだ。
そして、作品はそのようにクラントンは描かれていた。野卑は知性
とは無縁である、と。
自己否定や自省、自己批判による自己検証と総括、それからの再構築
という精神作業は知的な者だけが取り組める人間として高度な領域に
属するものであり、動物のように知が低い者にはできないことだ。
知的水準が低い者は、あたかも知能が低い動物と同じ言動を為す。
まるで粗暴な野生動物のような態様を示したりする。この作品では
クラントンが対比的にそのように描かれていた。
この映画は、人間の光と影、知性と野卑、理性と蛮意、生と死を
表現豊かに描いた作品だ。
『トゥームストーン』の脚本家は、かなり深い人間心理を巧みに描いて
おり、また、俳優陣が高度な技法で演技しきっている。

目敏い方は気付いただろう。
最後の対決で、ドクとリンゴは同じ機種、同じタイプ、同じ仕様の
銃を使っている事を。
この表現描写一つ取っても、人間を描く作品として、本作は極めて
映画として質の良い佳作である。

実在のドク・ホリデイは、1887年11月8日、肺結核により死亡した。
36歳だった。