ドク・ホリデイ役のヴァル・
キルマーが主役ワイアット・
アープ役のカート・ラッセル
を鬼気迫る演技で食いまくり
の本作だが、ラストクライマ
ックスのこのドクと宿敵リン
ゴ・キッドとの決闘シーンを
観て、ピンと来た方も多いこ
とだろう。
対峙し、超至近距離からの抜
刀術=クイックドロウによる
決着。
絶対に外さない距離。
抜き撃ちの速さだけが勝負を
決める。
速く撃ったほうのみが確実に
生き残る。
この距離での西部劇での決闘
シーンは類をみない。
これは黒澤明の『椿三十郎』
のラストシーンのオマージュ
表現だろう。
倒れる寸前の死に行く者に
「どうした?来いよ!ほら、
どうした?」と罵るのは日本
人の武士ではあり得ないが。
それはアメリカンとジャパ
ニーズの精神文化の違いで
あると同時に、ドクは宿敵
であり自分に酷似するリン
ゴ・キッドに自分を重ねて、
病死を前にした自分自身に
対しての自己否定のニヒリ
ズムにも似た反駁の煽りで
もあったことだろう。
そのことは、ワイアットと
最期の病室での別れの時の
やり取りにも表れている。
「お前が俺の本当の友人な
らば、俺のもとから去れ」と
ドクは最期に言う。
ワイアットは涙を押し殺し
て「お前は最高の友だ」と
残して病室を去る。
ドクとワイアットは性格も
生き方も違うが、強い絆で
結ばれている。
ドクはリンゴを自分と全く
同じ種族で同じ定めを持っ
ているとみて、「あえて」
嫌う。
ドクもリンゴもインテリで
ある。
ラテン語を話し、聖書を知
悉し、シェークスピアも解
する。
ドクは当時ごくごく一部の
者しか進めなかった大学で
学び医師(史実は歯科医師)と
なっている。多分、裕福な
家庭に育ったのであろう。
また、リンゴ・キッドもド
クと同じような境遇だった
ことだろう。
それが今は二人とも荒野の
西部に流れ落ちぶれ、ヤク
ザな生活を送っている。常
に死の影を引きずりながら。
名前もいつしか本名ではな
くドクとキッドという通り
名で呼ばれるようになった。
ドクはリンゴ・キッドに自
分を見た。そしてそれを否
定した。
ドクは末期結核で血に咽び
ながらアープに言う。アー
プの保安官バッヂを見ながら。
「それを着けたかったよ」
これは、本当は裏街道では
なく、陽の当たる坂道をゆ
っくりと上りたかった心を
表したものではなかったろ
うか。
そして、アープはバッヂを
ドクに握りしめさせる。
そのバッヂを胸にドクは単
独で抜け駆けして決闘に向
かう。
リンゴ・キッドと対峙した
時、リンゴはドクに言う。
「あんたとはやりあうつも
りはない。あんたとはやり
たくないんだ」
これは、ドクはリンゴに自
分を重ねて自己否定してい
たが、リンゴはドクにやは
り自分を重ねたが、同類と
しての共存意識があったこ
とを表している。
だが、リンゴに自分を重ね
るドクは、リンゴに胸のバ
ッヂを見せてリンゴに言う。
「これを見ろ!」
俺はお前とは違うのだ、と
の思いがドクにはあった。
これは、ドクの中に棲む二人
のドクのうちの一人に対して
ドクが決別を宣言した瞬間だ
った。
バッヂを見て愕然としたリン
ゴは、それならばやるか、と
覚悟を決める。
リンゴにしてみれば、「ブル
ータス!お前もか!」と思っ
たことだろう。
この対峙する二人の関係性は
『椿三十郎』で三十郎が室戸
半兵衛を指して「こいつは俺
とそっくりだ」として自己否
定するのと同質だ。
本作『トゥームストーン』は、
ドク・ホリデイが主役の作品
ではないかと思えるほどに、
ヴァル・キルマーの演技が冴
え渡る。
同じOKコラルの決闘を題材に
したアープが主役の映画では
稀代の名作『荒野の決闘 いと
しのクレメンタイン』がある
が、あの作品でもドク・ホリ
デイ役のヴィクター・マチュ
アがワイアット・アープ役の
ヘンリー・フォンダを食いま
くりだった。
『荒野の決闘』と『トゥーム
ストーン』では、ドク・ホリ
デイのキャラが鮮烈に立つの
が特徴だ。
『ワイアット・アープ』(1994)
では、前年公開の『トゥーム
ストーン』の轍を踏まぬよう
にしたのか、ドクの影を潜め
させて、あくまでもアープを
前面に出して演出させている。
ドクはあくまで「添え物」と
して。
これはもしかすると、ケビン・
コスナーの希望だったかも知
れない。
その手の嫌悪は主役俳優にお
いて時々見られる。
『眠狂四郎』では、狂四郎と
同じ円月殺法を使う天地茂が
市川雷蔵よりも注目され、雷
蔵は「どちらが主役か分から
ない」とかなりのおかんむり
で不機嫌だったのは有名だ。
また、『荒野の七人』では、
ユル・ブリンナーがスティー
ブ・マックィーンの演技が冴
え渡ることに難癖をつけ、同
じカットの中に収まることを
拒否した。理由は簡単。マッ
クィーンの演技のほうがずっ
とキマってるからだ。マック
ィーンの演技上の仕草一つ一
つにユル・ブリンナーは文句
をつけたという。このマック
ィーンのキメは作品を見れば
判る。
彼は台詞がなくとも顔の表情
だけで演技を成立させる数少
ない役者の一人であり、どの
役をやっても同じユル・ブリ
ンナーの仏頂面のダイコンで
は、それはもう端から太刀打
ちできない。
だからといって、自分の力不
足を自省せずに共演者を逆恨
みするのはお門違いの心得違
いだとは思うが、役者などは
俺様大将が多いので、なかな
か自分に刃は向かない。
役者というより「芸能人」、
「芸能者」と置き換えたほう
が正解か。
アイドルなどのつけ上がりな
どはその典型だろう。
そもそも、オーディションそ
のものが、他者を蹴落として
掴むチャンスであり、それを
よしとする世界に棲む表現者
たちは、自分こそが第一であ
るという意識を持つ者たちで
あり、俳優や芸能者・芸能人
が「俺が俺が」とか「あたし
があたしが」という性格を主
軸に持つ種族であるのはその
ためだ。
政治家と芸能人だけは、自己
顕示欲の塊でないとやってい
けない。
だが、映画で描かれるドク・
ホリデイはどうか。
自己否定の塊である。
その自己否定は、完全否定
ではない。
あたかも全共闘がテーゼと
して掲げた自己否定と同質
なのだ。
それは、否定を通して自己
解体をし、そこから再構築
して真の自分自身を確立し
て明るい未来を展望する、
という自己否定であるのだ。
『トゥームストーン』での
ドクの心はいつもそこにあ
った。
だが、病魔がそれを阻んだ
のである。
ドクとリンゴの心の在りか
と心境は、彼らが知的であ
ればあるほど彼らを苦しめ
たし、また、知的な彼ら同
士しかその自己否定とそれ
を突破したい希求心などは
理解できない。
作品に登場した単細胞で粗
野で野蛮なクラントンなど
には、絶対に逆立ちしても
ドクとリンゴの心境などは
理解できないのだ。
そして、作品はそのように
クラントンは描かれていた。
野卑は知性とは無縁である、
と。
自己否定や自省、自己批判
による自己検証と総括、そ
れからの再構築という精神
作業は知的な者だけが取り
組める人間として高度な領
域に属するものであり、動
物のように知が低い者には
できないことだ。
知的水準が低い者は、あた
かも知能が低い動物と同じ
言動を為す。
まるで粗暴な野生動物のよ
うな態様を示したりする。
この作品ではクラントンが
対比的にそのように描かれ
ていた。
この映画は、人間の光と影、
知性と野卑、理性と蛮意、
生と死を表現豊かに描いた
作品だ。
『トゥームストーン』の脚
本家は、かなり深い人間心
理を巧みに描いており、ま
た、俳優陣が高度な技法で
演技しきっている。
目敏い方は気付いただろう。
最後の対決で、ドクとリン
ゴは同じ機種、同じタイプ、
同じ仕様の銃を使っている
事を。
この表現描写一つ取っても、
人間を描く作品として、本
作は極めて映画として質の
良い佳作である。
実在のドク・ホリデイは、
1887年11月8日、肺結核に
より死亡した。
36歳だった。