脇差:出雲大掾藤原吉武(延宝-1673~1680- 山城) 特保。
「平安城住出雲大掾藤原妙吉武」「出雲大掾藤原吉武」
「出雲守法哲入道吉武」堀川。川手市太夫。堀川国武の
子で三条吉則の末裔と称す。のち江戸へ移住。元禄7年
(1694)5月没。作刀は小板目に杢がまじって肌が流れ
て地沸つき、肌立つ気味がある。刃文は小沸出来の直刃
に浅いのたれのまじったもの、互の目に大互の目がまじっ
て沸にふかいものなどがあって、帽子は直ぐで尖りごころ
の小丸に返る。業物。
本作は小板目に杢がよくつみ、地沸がびっしりとつく。刃文
直刃にところどころ互の目がまじり、腰に三本杉風乱れの
腰刃を焼く。物打付近から焼き幅広く、帽子小丸に深く返り
覇気に富む。
延宝期の切れ物鍛冶吉武の作だが、古刀の鋼を観るが
如く、とても鉄味が良い。重ねは極めて厚く、元重が8.2ミリ
ある。銘は非常に力強く、「ザ・刀鍛冶」の銘である。
この作者の没後5年後の元禄12年に私のある先祖は没して
いるが、差し料が備中水田住山城大掾源国重だった。この
吉武とまったく同世代の鍛冶だ。この川手市太夫吉武さんも
大月伝七郎国重さんも私の先祖も、これら三名はまったくの
同世代ということになる。同時代にこの三人は生きていた。
この吉武作の一刀は、当時としては「最新の現代刀」という
ことになる。どのような人が持っていたのだろうか。
当時の最新現代刀(今の分類では「新刀」)であるのだが、
非常に古雅な鉄味であり、同時期の別地方の新刀を私は
所有しているが、やはり極めて鉄味が古雅であり、もっとずっと
古い時代の刀の鉄のように見える。
もしかすると、延宝期は江戸期開始から70年程が経っている
が、まだまだ古い時代の鉄が残存していて、新刀特伝を専ら
とする多くの鍛冶とは別に、気骨あるこだわりの切れ物鍛冶
たちの間では旧古の材料がまだ使われていたのかも知れない。
本作も鉄色がそもそも新刀のそれとは異なり、古刀のような
とても青い地鉄なのだ。
この刀も次に紹介する刀もある剣友からの預かり物だが、
この人は変った人で、切れ物日本刀ばかりを所有している。
所蔵作数はかなりに上るが、すべて「実用武用刀」のような
武人の武士が好んだような作ばかりを所有している。
こうした方向性の刀剣指向は、ある種徹底していて、私個人
としてはとても好感が持てる。
改めて、勉強のための貸し出し、深謝。
次はこの人の作。昭和時代には、まだ戦前から続く骨太の
気を吐く刀鍛冶も剣士も大勢いた。それは、実用刀剣の時代
を生きて来た人たちのみがなせる実体験からくる感性が、
日本刀の本質的質性とは何であるかから心が離れることを
拒否したからだろう。
ここで書かれている「玉鋼」とは、日刀保の復活復元新鋼の
「玉鋼」のことではない。日刀保の靖国たたら復元鋼が刀工
に渡され始めるのは1980年からだからだ。
今回、十二分に上(かみ)も観賞したのだが、刀身の撮影は
していない。
ここでは、なかごを見たい。
なかご仕立てと、銘の在り様を見て行きたい。
物凄い銘が切られている。鏨の運びも見事だが、その切られた
銘の中身が目を釘付けにする。
「綱(つな)」とは「かせ」のことである。この「据物切 くされ綱
截断参度試」というのは、錆びた鉄かせを三度裁断したと
いうことだ。
記載されている「精参流」とは、土佐の長宗我部家に伝わって
いた抜刀術・剣術であり、そこから明治初期に長宗我部家の子孫
である長宗我部親泰氏が水心流という詩剣舞を創設した。
本作の切り手は精参流16代宗家、水心流詩剣舞2代宗家の
岡霊鳳氏である。本作は鉄かせを三度裁断という壮絶な切れ
味を示している。上(かみ)は備前一文字のような大丁子だが、
その体配が尋常ではない。元身幅38ミリの二尺五寸長ある。
重ねも厚いのだが、不思議な事に非常に持ち重りがしない。
長大重ね厚の幅広刀身であるのに手持ちが軽く感じるので
ある。これは反りが強いために重心バランスが均整がとれて
いるためと推察できる。
土壇切の真向から鉄に三太刀切りつけてすべて裁断。まさに
斬鉄剣といえる。
切り手も凄いが、刀も凄い。
ちなみに、鉄は袈裟などでは裁断できません。これは力学的に。
鉄パイプなどを立てて袈裟に切断したなどということは俄かには
措信できません。横に寝かせて斜めに土壇切真向からならば
切れるでしょうが、立てた鉄パイプを袈裟というのは、少々話が
大袈裟のように思われます。立てた鉄パイプを袈裟で切断した
動画映像も写真も見たこともなければ、実話の本当話としても
私は寡聞にして耳にしたことがありません。
この刀の裁断銘にあえて「据物切」と明記してあるのは、それは
しっかりと置き据えて真向土壇切で切り下ろしたことを示して
いるのです。でないと鉄は切れない。これは断言します。
鉄パイプを立てて斜めにスパスパと袈裟で切ったと言う御仁が
もしどこかにいて、それを吹聴しているとしたら、それはまず
間違いなく虚言ですね。つまり嘘。証拠の動画を出させれば
判明します。出さないことでしょう。刀で立てた鉄パイプを
袈裟にスパスパ切ることなどは出来ない事なのですから。
鉄パイプを立てて斜めにスパスパ袈裟に切れるとか、竹切り
こそが剣術であり我が宗家はこれまで1億本切った(1本1分かけて
1日8時間毎日続けても570年かかる)とか、刀で石を切り断てる
とか(石は割れても刀では切れません)、我々は裏柳生だとか等々、
脳内妄想の虚言の大嘘をまともな人間の真実を言う行為である
だなどと、まかり間違っても信じてはなりません。虚言を弄する
のは、心にマコトが無いからであり、邪な嘘まみれの穢れた
汚い性根であるので、そういう嘘つきはまともに相手しては
なりません。とことん心が汚れ切っており、日本刀が本来持つ
清純性とは無縁の存在なので、そうした汚なき者は相手にしない
に限る。
日本人は、日本刀とは嘘無き純粋な心でお付き合い頂きたい。
土佐精参流16代宗家、水心流2代宗家岡霊鳳氏(故人)
(このサイトを参考にさせていただきました。土佐英信流
以外にも吹いている土佐の風。ご興味のある方はお問い合わ
せください)
土佐の人間が鍛え打ち上げ、土佐の人間がその刀で切る。
なんだか、こういう事ってある種の憧憬に似たものを私は感じる。
というのも、広島藩は、広島藩成立以前の古刀期には大山鍛冶
と二王がいたが、幕藩体制以降の浅野広島藩時代には、幕末
の石橋正光以外はさして秀でた刀工に恵まれていなかったから
である。
広島県という括りでは、備後福山藩には水田国重系の鍛治が駐鎚
して作刀し、裁断銘まで残す利刀を作っているが、安藝廣島淺野家
領内では、三原城内に抱え工はいたにせよ名を馳せてはいない。
無論、広島藩成立以前の南北朝期から備後鍛冶は非常に栄えた。
だが、どういう訳か安芸国鍛冶は周防から安芸西部に駐鎚していた
二王鍛冶と今の瀬野川上流地区の大山鍛冶以外には古刀期新刀期
を通じて、名だたる名工がいないのである。
備後国は砂鉄王国だったこともあり、備前に次ぐ刀剣量産地
として古刀期には栄えたが、安芸国はどういう訳かサッパリ
だったというのが実情だったのだ。
南北朝・室町・戦国・安土桃山期に栄えて切れ物作を作る集団
として名を全国に知らしめた備後国の著名刀工群は、言わずと知れた
「三原」である。
三原のうち一人の刀工は日本刀の刀鍛冶数万名のうちたった14名
しかいない「最上大業物」に選出され、また皇室の家宝である
御物にもなっている。
三原の刀はよく切れ、そして静謐で美しい。
刀に嘘は無い。
嘘をつくのは人間だ。