これはヤバイ原付!
HONDAドリーム50の世界最小
DOHCエンジンが凄すぎる!
日本の二輪メーカーホンダの
一つの到達点、達成点を体現
した歴史的モデルかと思う。
レーサーレプリカだ。
1960年代のグランプリレーサ
ーCR110の。
それをモデファイした公道市
販モデルが発売された時には
ぶったまげた。
やったわ、これ、みたいな感
じで。
これは動態保管しておきたい
モデルだ。
社長の言に思わず笑った。
「気分はショートホープ」
(笑
(チューボーの吸い始めの時
からおいらはショッポ一筋
だぜっ)
私がよく行く岡山県笠岡市の
モトカフェ「Z-YARD」には
このドリーム50が喫茶室内に
2台展示されている。
そのうちの1台がすげえよ。
走行距離200m。
というか走ってない。
ホンダから直送だったので、
押して転がしただけの距離
をメーターが動いただけ。
新車も新車、まるまる工場
出荷のそのままの状態で保
存されている。
アルティメイト!
転がし走行距離200メートル。
1960年1月、私が生まれる前
に開発が開始され、1962年5
月にCR110として誕生したホ
ンダの技術の粋が凝縮された
究極の4スト49.99ccレーサー。
地面師観たぜ~。
通して2度も(笑
プリミティブってのは黒幕
の地面師がひでーやり方す
る前に言う台詞だよな。
粗野で野蛮で未発達な原始
的という意味合い。
ただ、あれは嘘で、頭蓋骨
は革靴で蹴り下しても粉々
にはならない。小銃の木製
ストックで叩き下ろしたり
しない限り。
そのシーンは映画『プラト
ーン』にあったが、あれは
リアル。
てな話じゃねえんだよ。
ドリームな話なんだよ。
夢のあるオートバイの話。
ホンダのドリーム50はまさ
に夢。敦盛のように下天の
うちをくらぶれば、位の夢。
てか、夢のマシンといえば、
私、幻のヤマハワークスレ
ーサー50(2気筒)を高校の時、
毎週磨いていた。
うちのレーシングチームの
レーサー保存建物内に保管し
てあった。動態保存だった。
ヤマハファクトリーで作られ
た2台のうちの1台だったよう
だ。
そのヤマハの幻のワークスマ
シンはモータープロダクトの
レーサー保管場所にあった。
場所は練馬区桜台。
レギュレーション改訂で活躍
できない幻のマシンだったよ
うだ。
1962年新設の世界グランプリ
50ccクラスは世界トップの職
人技のライダーばかりがマシン
を走らせていた。超絶むつかし
いらしい。小排気量ほど二輪
は扱いが難しいから。
1963年に英国マン島で世界初
日本人のライダー、スズキワ
ークスの伊藤光夫選手が優勝
したのは歴史的快挙だった。
これね、モーターサイクル史
ではメジャーの大谷選手の活
躍よりも凄いことなんだよ。
あとにも先にも、日本人で
マン島を制したのは1963年
の伊藤選手のみ。
日本人が日本のオートバイ
で世界を制する。
これはそれまで日本人の悲
願だった。
まさに夢。
夢うつろの夢ではなく、ま
た睡眠時に観る夢でもなく、
希求せる目標としての夢。
日本人のドリームだった。
当時の50は変速シフトが9段
位あった。中には10数段シ
フトという化け物もあった。
繊細な操作ができる職人しか
まともに走らせる事はできな
い。
レギュレーション改訂で活躍
できない幻のマシンだったよ
うだ。
1962年新設の世界グランプリ
50ccクラスは世界トップの職
人技のライダーばかりがマシン
を走らせていた。超絶むつかし
いらしい。小排気量ほど二輪
は扱いが難しいから。
1963年に英国マン島で世界初
日本人のライダー、スズキワ
ークスの伊藤光夫選手が優勝
したのは歴史的快挙だった。
これね、モーターサイクル史
ではメジャーの大谷選手の活
躍よりも凄いことなんだよ。
あとにも先にも、日本人で
マン島を制したのは1963年
の伊藤選手のみ。
日本人が日本のオートバイ
で世界を制する。
これはそれまで日本人の悲
願だった。
まさに夢。
夢うつろの夢ではなく、ま
た睡眠時に観る夢でもなく、
希求せる目標としての夢。
日本人のドリームだった。
当時の50は変速シフトが9段
位あった。中には10数段シ
フトという化け物もあった。
繊細な操作ができる職人しか
まともに走らせる事はできな
い。