原チャんねるのちょこみさん
の動画での社長とのやり取り。
「横浜来た」
「ちょこみが横浜?」
「横浜来た」
「似合わないって」
「何てこと言うんですか」
「ちょこみは仙台港!」
「(笑)いや、そうだけど」
「仙台港のカインズ!」
「(笑) そうだけど」
仙台港は結構大きい。
横浜のような湾を利用した
港ではなく、完全に埋め立
てによるまるでドックのよ
うな港だが。
港前の公園は綺麗だ。
横浜の場合、幕末の黒船に
よる外圧を反らすため、江
戸湾深く江戸まで外国船を
侵入させないための防備の
意味もあって、浜が横に伸
びた僻地に港を作った。
外国は神奈川を開港させる
事を迫ったが、少し南の離
れた寒村の小港を「ここも
神奈川に御座る」と幕府は
海外を誤魔化して横浜に港
開港したのだった。それが
横浜の街の始まり。元々は
ちらりほらりと煙が上がる
程度の本当の寒村だった。
横浜市歌にもそれは謳われ
ている。
今は日本一の港になった。
ただ、現実に現在でも神奈川
区以北と横浜港のある中区以
南では使用している地元言葉
が違うように、神奈川を境に
「場所が違う」という意識は
幕藩体制時代からあった事が
歴史の事実から覗える。
だからこそ、神奈川に開港を
要求する外国に対し、江戸幕
府は離れた南の寒村をそこも
神奈川なりと策を弄して外威
を以て開港を迫る外国をたば
かった。
実際に神奈川を境に北は江戸
文化産業流通圏、南は地方の
僻地、という意識があった事
が看取できる。
現代でも神奈川区を境に横浜
市の北部と南部では文化が異
なる。
これは私は横浜南部と北部の
両地に実際に住んで生活して
いたのでよく分かる。
横浜北部では「じゃん」は一
切使わない。
今では「じゃん」は広島県で
さえも使う全国語のようにな
っているが、これは横浜中部
~南部地方の方言。標準語で
はない。
最初にこの明治以降に生まれ
た横浜の方言を使用し始めた
のは東京だったが、その頃で
あっても横浜北部エリアでは
「じゃん」は使わなかった。
横浜中南部の方言の「じゃん」
は元々は静岡から来た沖仲仕
たちのお国言葉だった。
現在、広島などの地方で「じ
ゃん」を普通に使う人たちは
それは標準語かと勘違いして
いるフシがあるが、ジャンは
横浜中部~南部にかけての
ハマの方言である。
「さ」を横浜もよく使うが、
それは東京方言。元々は東北
の方言が流れて来たものだ。
中国地方に在住してみると、
ごくごく狭い小エリアで全て
方言が異なる事に気づく。
広島弁というのは実は無い。
もっと狭いエリア毎に全て
言葉が異なるのだ。
例えば広島市内と近い距離の
西部北部では言葉が異なり、
広島県三原市の中でも、城の
周辺と在の農村では言葉が
異なり、城周辺とほんの数
キロ東の糸崎では言葉が違う。
さらに三原市中から10キロ程
東の尾道市はまた言葉が違い、
さらに隣りの広島県福山市に
行くと、これは築城時に名古
屋からの人員が大量に来たの
で名古屋弁に極めて近い言葉
になる。ミャーミャー言う。
「お前」は「おみゃ~」にな
る。伝法な江戸弁では「おめ
え」という言葉。
方言とは一概にいうが、実は
方言の差異というものは現在
の行政区画で区分はできない。
こうした事は東京や大阪にだ
け住んでいては実感が湧かな
いだろうが。
そして地方では、その使う言
葉の微細な違いによって、す
ぐにどこの人間か判明する。
こうした地方の細かい部分が
小地域によって異なるという
言語の特性を中心幹に据えた
サスペンス小説が松本清張の
『砂の器』(1960)だった。
今、広島県では凡そ45才以下
の人たちは子どもの頃から自
分の事を「わし」とは言わな
い。
それより上の年代は幼稚園児
であろうとも男は自分を「わ
し」と呼んでいた。
そして、自称を「わし」世代
ではない世代の広島県民は全
員が「じゃん」と「さ」を使
う。
横浜中南部と東京の方言だ。
「じゃん」「さ」は標準語で
はない。東京横浜の方言。