1970年の作品。
『ハレンチ学園』のアダルト版
のような学園ドラマ。
だが、映画ハレンチ学園の舞台
も中学校だが、こちらはどう見
ても中学三年の女子生徒には見
えないお姐さん方が登場する。
主人公の夏純子さんも当時21才
で中学3年の役は結構無理があ
る。かわいいけど。
25才の教師役の松原智恵子が
かなり美人。夏さんと年が実
はあまり変わらない(笑
ドラマは不良とかズべ公とか
スケ番とかではなく、反抗期
の女子生徒の生態を描いてい
る。
今の時代からすると大不良だ
ろうが、この年から3年後に
中学に入学した私の経験から
いうと、彼女らはまだおぼこ
いほうだ。
ただ、例によって映画。時代
考証はあまり正確ではない。
女子生徒は主人公の夏さん
以外は全員「あたい」と言う(笑
映画製作者は時々10数年昔の
感覚で「現代劇」を撮ろうと
してしまうきらいがある。
1986年春に公開の大林宣彦
監督作品の『彼のオートバイ.
彼女の島』でもそうで、86年
時点であんなバイク乗車決闘
やあのバイク便ライダーたち
のやさぐれたいでたちや行動
などは不存在だった。
「日活無国籍映画の時代かよ」
という程に製作者側の感覚が
ずれていて、1986年当時には
くっそダサ過ぎて都内の実際
の現役乗り屋たちは皆ネタと
してその映画作品をパロって
遊んでいた。まるで堀ちえみ
の「グズでのろまな亀」を
大笑いしながらもネタとして
観ていた1983年のように。
そして本作では、登場人物の
女生徒たちは神奈川県川崎の
白薔薇学園中等部に通ってい
るが、どう見て場末のバーの
ねーちゃんたちみたいな感じ
で、とても15才の中学生には
見えない(笑
出演者の清楚な女性教師役の
松原智恵子は吉永小百合と
並んで「日活三人娘」と呼ば
れた清純派だったが、現実的
に女子高生の頃に女子高生役
で演技していた作品では実に
輝いていた。
やはり女子高生だった吉永小
百合も『キューポラのある街』
(1962)では17才の現役女子高生
だった。あのリアルな瑞々し
さ。
今の朝ドラで25才の橋本環奈が
15才の高校1年生を演じられる
のは橋本環奈の素材によるもの
だが、ドラマ『今日から俺は!』
(2018)では橋本以外の高校生役
は全員が20代~30代だった。
違和感無く観られたのは、役者
たちの素が若々しいからだろう。
本作では、女子中学生の真面目
さん役あたりには映画『どぶ川
学級』(1972)のような本物の女子
中学生ぽい役者さんたちも出演
しているが、物語の中心のグル
ープの女性たちは皆がトウが
立ちすぎている。せめて高3あ
たりにしておけばよかったと
は思うが、あえて話題性を狙っ
て中学設定にしたのは見え見え
の感がある。
だが、時代だ。1970年という
激動の60年代末期の残り香の
ような気風がまだ社会に残存
していた事は作品の中で描か
れている。これはタイムリー
に極めて正確な描写だ。
学園生活の中で、やがて理不尽
な私立中学の退学処分を数名が
くらってしまう。学校自体は金
銭関係で不正を闇に握りつぶそ
うとしていたのに。
女子生徒たちは決起してアジテ
ーションをかまして、全校スト
ライキに入った。
彼女たちは決してズべ公ではな
く、自由を求める闘志として自
覚的に精神的自立を成して学友
と団結したのだった。
中学校の全校ストの中で「この
広い野原一杯」を合唱するスト
参加者の女生徒たち。
茶番のような熱血青春映画で
はあるのだが、不思議な事に
じわりじわりと引き込まれる。
若き日の江守徹も教師役と
して好演だ。
全編が浪花節なのだが、教師
江守は自分が一人責任を取る
形で退職して東北の山の中の
学校に転任する事になる。
そして、ラストシーン。
白薔薇学園中等部に新しい
教師が赴任して来た。
「いかしてる」先生が来た
とキャーキャー騒ぐ女子
中学生たち。
その新任教師は何と若き日
の藤竜也だ。
この映画、悉く茶番ではある
のだが、観る者を惹きつける
不思議な力を持っている。
人の涙や真心や真っ直ぐな心
がまだ価値があると見做され
ていた時代の作品だからだろ
う。
大阪万博の年であり、改定
安保条約反対闘争が激化し
た60年代末期の再頂点の年
だ。(1970年代とは1971年
から始まる。1970年は1960
年代の最後の年)
ストに対して「ゲバゲバか?
だったら応援してやろうじゃ
ないか」と街のストリップ
劇場のヤクザのチンピラも
白薔薇女学園に陣中見舞いに
多くの支援物資を持ってクロ
ネコヤマトのトラックで駆け
付ける。中核派全学連に材木
業者が大量に角材を寄付した
のは本当の話だ。
横暴な権力に対して「闘う学
生」たちを市民たちが応援し
ていたのは本当の事だった。
王子闘争しかり、神田しかり、
飯田橋しかりe.t.c...
学生たちの投石に乗じて仕事
帰りの背広のサラリーマンた
ちさえも権力の暴力装置に対
して路上で石を投げていた。
彼ら勤め人の野次馬は「見学
連」と呼ばれていた。
本映画作品でも、学校の不正
を訴える女生徒たちの校外放
送を聴いた近所の市民たちも
「ゼネストをやれ~!」と女
子中学生たちを応援する。
一つの時代性を象徴している。
今では想像もできまい。
だが、実際に日本の首都圏の
1960年代後半から1970年代
初期はそうした空気だった。
今のような右傾化や右的な発
想をして体制側に媚びるネッ
ト民たちのような存在は悪辣
な権力にひれ伏す「社会悪」
だったのだ。
これ、ほんと。
今は世の中違う。
自由と平和を主張するとまる
で蛇蝎のように嫌うべき「左
翼」であり、拒否すべき社会
悪であるかのように騒ぎ立て
るネット民が横行している。
まるで思想ギャングのように。
否、イタリアの黒シャツ隊や
ナチスのゲシュタポの手先の
ように。
1960年代後半と1970年代の
日本は、国民皆兵特高憲兵隊
のような思想と指向性を持つ
今のような歪んだみにくい狂
った世の中ではなかった。
これは事実だ。
今は人が人を差別し、排除し、
排外し、個人攻撃で誹謗中傷
し、自殺に追い込んでもやっ
ている連中はせせら笑ってい
る。
だれが?
お前がだよ。
ここにSNSやネット匿名掲示板
という悪所からのリンクで嬉々
としてやってきて、これを読ん
でいるお前らが人を誹謗中傷攻
撃する刑事犯罪を匿名の陰に隠
れて実行し、そして人殺しをし
ている。