ただラーメンを食う為だけ
に走る。
それを某特定業界用語では
「ラーメンツーリング」通
称「ラーツー」と呼ぶ。
実際にラーメンを食いに行っ
たりする。
往復何百キロ走って。
に走る。
それを某特定業界用語では
「ラーメンツーリング」通
称「ラーツー」と呼ぶ。
実際にラーメンを食いに行っ
たりする。
往復何百キロ走って。
徳島市内でラーメンを食べた。
かなりうまかった。
印象は煮込みラーメンのよう
かなりうまかった。
印象は煮込みラーメンのよう
だった。
同行者は気づいた。
私も気づいた。
地元では「徳島ラーメン」と
は呼ばない店が多い。
多くが自称は「中華そば」と
いう触れ込みで店を張ってる。
これは「尾道ラーメン」とは
違った傾向で興味深く思えた。
ただ、尾道のラーメン屋も、
古くからの店は「尾道ラーメ
ン」とは自称しないという事
実があるが、観光振興系の自
称「尾道ラーメン」キャッチ
フレーズを冠とする店が急激
に増えた、という歴史がある。
言語概念化は人に対してある
方向性を暗示的に示唆させる
現象がある。
「中華そば」と聴いたら、私
などは屋台ラーメンのような
醤油ベースのラーメンをイメ
ージしてしまうが、何もそれ
がスタンダードとは限らない。
九州では「ラーメン」といえ
ば豚骨スープが主軸であるよ
うに。
所変われば品代わる。
食べ物というのはそうした各
地の人々の生活密着性を帯び
るので、文化人類学的にも面
白い。
そうして日本にとどまらず、
世界の食文化に接すると世界
の人々の文化に触れ合える。
国内だけ見ても多くの人に知
られていない美味しい物はま
だまだ日本全国に多くある。
それらの食文化に触れるとい
う事は日本各地の多彩な文化
に触れる事と直結するので非
常に世界観がふくよかになる。
人々の生きる日々を支える食。
そこには「息吹」がある。
同行者は気づいた。
私も気づいた。
地元では「徳島ラーメン」と
は呼ばない店が多い。
多くが自称は「中華そば」と
いう触れ込みで店を張ってる。
これは「尾道ラーメン」とは
違った傾向で興味深く思えた。
ただ、尾道のラーメン屋も、
古くからの店は「尾道ラーメ
ン」とは自称しないという事
実があるが、観光振興系の自
称「尾道ラーメン」キャッチ
フレーズを冠とする店が急激
に増えた、という歴史がある。
言語概念化は人に対してある
方向性を暗示的に示唆させる
現象がある。
「中華そば」と聴いたら、私
などは屋台ラーメンのような
醤油ベースのラーメンをイメ
ージしてしまうが、何もそれ
がスタンダードとは限らない。
九州では「ラーメン」といえ
ば豚骨スープが主軸であるよ
うに。
所変われば品代わる。
食べ物というのはそうした各
地の人々の生活密着性を帯び
るので、文化人類学的にも面
白い。
そうして日本にとどまらず、
世界の食文化に接すると世界
の人々の文化に触れ合える。
国内だけ見ても多くの人に知
られていない美味しい物はま
だまだ日本全国に多くある。
それらの食文化に触れるとい
う事は日本各地の多彩な文化
に触れる事と直結するので非
常に世界観がふくよかになる。
人々の生きる日々を支える食。
そこには「息吹」がある。
例えば「ラーツー」などとい
う特定業界の特異行動などは、
そうした見知らぬ「息吹」を
感じることを自分でも知らぬ
うちに希求しているという、
一つ無意識の人としての喜び
の欲求行動として存在するの
ではなかろうか。
それは、狭い自己周辺の檻と
垣根を破りたいという人間的
な希求が、実は多くの人々に
内在しているという事の証左
なのではなかろうか。
旅行や観光に見られるような
「見知らぬ土地に行く」事を
人間の多くが求めるのは、そ
うした別文化を見知る事をし
たいという外に向けての欲求
と、殻を破りたいという内的
自発が存在するのではと思え
る。
元来、人は嵌められた枠を甘
受する事を拒否したい自立的
な魂を心に宿しているのでは
なかろうか。