食品スーパーに棒ラーメンがあった。最後に食べたのはもう50年以上も前の話になる。栄養不足で過ごした学生時代の思い出の品でもある。
下宿は北白川の志賀越道にあった。賄いがつかない間借りで、2階に京間の8畳が4部屋ある大きな家だった。昔の造りで、手すりのない急傾斜の階段で最上段から滑落したことがある。物音に大家のお婆さんがとんできたが、靴下の踵に穴が開いただけで私が無事なのを見て、あなたが二人目と言った。当時の家賃は6千円。親からの仕送りが1万2千円で、差引き6千円が生活費だった。
入学して2年間はバイトをしなかったので、かつかつの生活である。一応、学生の本分として本代や交通費に金をとられるので、自然、食費に皺寄せが来た。生協の食堂が頼りで、下宿から近い別の大学の生協には、在校生のような顔をして随分お世話になったものだ。少し余裕がある時は町の中華料理店や食堂へ出かける。高いがちょっとした贅沢だった。そして生活費が乏しくなると、親からの仕送りが待ち遠しくなる。
いよいよ財布の底が尽き、丸一日を水腹で過ごしたことがある。その翌日、隣の学生が私の部屋を覗き、いまから大文字に登るぞと無理やり連れ出された。送り火で知られる如意ヶ嶽である。水も力になるもんだと思いながら下宿へ帰ってくると、仕送りの現金書留が階段に置かれていた。
そんな折、母から小さな段ボール箱が届いた。開けると棒ラーメンだった。即席ラーメンが普及し始めた時代である。有難いと、さっそく電熱器と小鍋を用意した。だが出来上がったのは水を吸い過ぎてドロドロになった麺の残骸らしきものだった。出来損ないをそのまま捨てて、母が送ってくれた棒ラーメンは床の間の飾りになった。
それから長い日にちが経って、いよいよ食べるものに困ったとき、床の間の段ボール箱が目についた。賞味期限は過ぎていたが、試しにと電熱器を持ち出してつくってみたら見事に普通口にするようなラーメンが出来た。同宿の学生と炬燵で鍋を囲んだりして扱いに慣れたらしい。
棒ラーメンはしばらくの間、私の金欠生活を大いに助けてくれた。日清のカップヌードルが売り出されたのは、それから間もなくである。お湯を注ぐだけなので失敗もなく簡単至便な即席麺だった。この即席麺は私が卒業する間際に起きた浅間山荘事件の時、極寒の中で犯人と対峙する機動隊員の貴重な食糧になったという。
久方ぶりに食べた棒ラーメンで、昔過ごした日々の感触が甦ってきた。当世のラーメンの様にこってりではなく、あっさりした素朴で懐かしい味である。
しみじみ読ませてもらいました
マルタイさんのラーメンは
今でも買い置きしています
あさま山荘の事件は
警察官の方が亡くなられたのが今でも残念
ノンフライ麺なので体にもいい様な気がします。
浅間山荘の時は、大阪の親戚の家でテレビを観ていました。
事件であれだけの長い時間、実況中継を行ったのは初めてだと思います。