稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

世界人権宣言

2017年02月14日 | つれづれ
世界人権宣言というのがあり、その第一条に、
---------------------------------------------------------------------
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
---------------------------------------------------------------------
と書いてある。嘘ばかりで気持ちが悪くなる。

人間は生まれながらに自由では無い。
家族との関係、住んでいる地域やら国の事情、
法律や慣習や、目に見えない暗黙の了解や経済力によって
何らかの制約を受けている。自由などと言うものは無いと考えて良い。

尊厳と権利とについても平等では無い。
北朝鮮の人民と、我々日本人の尊厳と権利が同じであるわけが無い。

自由でありたい、平等でありたいと願うのは自由であるが、
世界にはあまりにも恵まれない環境の人々が多すぎるし、
生命の危険にさらされている者に自由や平等の概念は遥かに遠い。

逆に、どんなに恵まれた環境にあっても、自由だ平等だと満足する者は居ないだろう。
それが人間の性(さが)なのだと思う。

人間には稚拙ながらも理性と良心があることにはあるが、
それを上回る邪心や疑心があり権利と権利はぶつかり合う。
結果、人と人との争いや国家間の戦争は無くならないのである。

この世界人権宣言は、第一条から第十三条まであるが全部が「願望」でしかない。
願望はあっても良いが、世界的にも見て、この恵まれた日本に住んでいるくせに、
どうでも良い権利ばかりを主張する人権屋たる者がいることが解せない。

日本は世界で一番古い歴史を持つ安定した国家であり、
他の国の宗教のような堅苦しい教典や教条に束縛されない暮らしがあり、
(正常に機能していない面も確かにあるが)最低限の社会保障がある国だと思う。

最低限の生きる権利さえも保障されていない人々が世界には巨万(ごまん)といる。
シリアや南スーダンなどの難民、東トルキスタンやチベットなどの中華内占領国家、
北朝鮮内の人民などなど。それに加え、北朝鮮に拉致されたわが国民の人権はどうなるのか?

「人権」という言葉を見るたびに、何か胡散臭さを感じている。

純粋に願望をかなえるために、身近な問題で地道な努力をするのは良いとしても、
一部の左巻きの政治勢力を手助けするような人権運動などくそくらえだと思う次第だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする