長井長正先生の遺文を書き写す作業を続けているが、
吉田誠宏先生の名が随分と出てくる。
お会いしたことも無い、名前だけの先生で、なかなかイメージがわかない。
さて吉田誠宏先生とは何者なのか?少し気になったので調べてみた。
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昔、近鉄奈良線の石切駅の奈良寄りに「孔舎衛坂(くさえざか)駅」という駅があった。
旧生駒トンネルを出たすぐの駅で、次の石切駅の間にも鷲尾トンネルがあり、
トンネルとトンネルに挟まれた、山間の薄暗い駅だった記憶がある。
(現在の石切駅は、開削した鷲尾トンネルの跡地に作られた)
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1914年(大正3年)7月17日、日下駅(くさかえき)として開業。
1918年(大正7年)鷲尾駅と改称。
1940年(昭和15年)6月、孔舎衛坂駅と改称。
1964年(昭和39年)7月23日、新生駒トンネル開通の路線変更により廃駅。
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孔舎衛坂駅跡の西寄りに日下新池(天女が池)という池があり、
そこには大正時代に日下遊園地という遊園地が存在した。
日下遊園地は、大正15年の「あやめ池遊園地」、
昭和4年の「生駒山上遊園地」の開園でさびれてしまった。
昭和12年に日下遊園地の料理旅館「永楽館」を買い取って改装し、
「孔舎衙健康道場」という結核療養所を設立したのが吉田誠宏先生である。

(孔舎衙健康道場跡、現「パンドラの丘」にあった案内板を撮影)
吉田誠宏先生は香川県出身。
警察官だったという話もあるが警察官ではなく、
実際は警察(現大阪府警)で剣道の指導をされていた。
そういう意味では職業剣道家でありプロである。
正義感が強く熱血漢でもあり、私財を投じて「孔舎衙健康道場」を創設した。
「孔舎衙健康道場」は、太宰治の小説「パンドラの匣」のモデルにもなった。
しかし戦中の物資不足で昭和17年秋「孔舎衙健康道場」は閉鎖された。
この孔舎衙健康道場から1キロほど北に吉田誠宏先生のご自宅があった。
(直線距離は1キロだが、実際に歩くと2キロのアップダウンの道である)
自宅の敷地内には「聖和道場」という剣道場があり別名「心身鍛錬道場」とも言った。
現在は吉田誠宏先生の娘さんが書道教室を開かれている。
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吉田誠宏、香川県出身
明治22年(1889年)~昭和54年(1979年)
大日本武徳会武道専門学校講習科卒業。
昭和20年~27年、連合国軍(GHQ)によって剣道が禁止されたが細々と稽古は続けられた。
古賀恒音、宮崎茂三郎、堀正平と交流があった。大阪税関師範。
西川源内、長井長正など、多くの剣士を育てたが段位や称号には無頓着だった。
長井長正先生は昭和35年から吉田誠宏先生に師事する。
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井上勝由(いのうえかつよし)現長正館館長は今年の12月で92歳を迎えるが、
若い頃、長井長正先生と聖和道場に稽古に行ったことがあるらしい。
その時、道場の山側では、阪奈道路の工事をしていたという。
阪奈道路西行きが開通したのは昭和45年(1970年)である。
同じ年(昭和45年)に長正館の道場が開設となった。

(昭和50年4月、長正館創立5周年にて、吉田誠宏先生)

(昭和50年4月、長正館での祝辞、吉田誠宏先生)

(昭和51年1月11日、聖和道場の初稽古、吉田誠宏先生)

(昭和51年1月11日、吉田誠宏先生宅にて、長井長正先生)

(昭和51年1月11日、吉田誠宏先生宅にて)

(昭和51年12月19日、聖和道場における大阪剣道道場連盟研究会にて)
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追記
【参考】「水平の行者 栗須七郎」吉田誠宏のこと
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190825/
【追記】2023年10月5日
東大阪市善根寺まで行く用事があったので聖和道場まで足を伸ばした。
改めて、娘さんに吉田誠宏先生のお話を聞こうとおもったのだ。
ところが敷地は整地され、別の建物が建っている。
近所の方にお話を聞くと、住んでいた吉田さん(吉田誠宏先生の娘さん)は、
数年前に心臓か何かを悪くされて突然亡くならっれたそうな。
残念である。帰りにすぐ近くの善根寺春日大社にお参りしておいた。
ご冥福を祈ります。合掌。
吉田誠宏先生の名が随分と出てくる。
お会いしたことも無い、名前だけの先生で、なかなかイメージがわかない。
さて吉田誠宏先生とは何者なのか?少し気になったので調べてみた。
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昔、近鉄奈良線の石切駅の奈良寄りに「孔舎衛坂(くさえざか)駅」という駅があった。
旧生駒トンネルを出たすぐの駅で、次の石切駅の間にも鷲尾トンネルがあり、
トンネルとトンネルに挟まれた、山間の薄暗い駅だった記憶がある。
(現在の石切駅は、開削した鷲尾トンネルの跡地に作られた)
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1914年(大正3年)7月17日、日下駅(くさかえき)として開業。
1918年(大正7年)鷲尾駅と改称。
1940年(昭和15年)6月、孔舎衛坂駅と改称。
1964年(昭和39年)7月23日、新生駒トンネル開通の路線変更により廃駅。
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孔舎衛坂駅跡の西寄りに日下新池(天女が池)という池があり、
そこには大正時代に日下遊園地という遊園地が存在した。
日下遊園地は、大正15年の「あやめ池遊園地」、
昭和4年の「生駒山上遊園地」の開園でさびれてしまった。
昭和12年に日下遊園地の料理旅館「永楽館」を買い取って改装し、
「孔舎衙健康道場」という結核療養所を設立したのが吉田誠宏先生である。

(孔舎衙健康道場跡、現「パンドラの丘」にあった案内板を撮影)
吉田誠宏先生は香川県出身。
警察官だったという話もあるが警察官ではなく、
実際は警察(現大阪府警)で剣道の指導をされていた。
そういう意味では職業剣道家でありプロである。
正義感が強く熱血漢でもあり、私財を投じて「孔舎衙健康道場」を創設した。
「孔舎衙健康道場」は、太宰治の小説「パンドラの匣」のモデルにもなった。
しかし戦中の物資不足で昭和17年秋「孔舎衙健康道場」は閉鎖された。
この孔舎衙健康道場から1キロほど北に吉田誠宏先生のご自宅があった。
(直線距離は1キロだが、実際に歩くと2キロのアップダウンの道である)
自宅の敷地内には「聖和道場」という剣道場があり別名「心身鍛錬道場」とも言った。
現在は吉田誠宏先生の娘さんが書道教室を開かれている。
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吉田誠宏、香川県出身
明治22年(1889年)~昭和54年(1979年)
大日本武徳会武道専門学校講習科卒業。
昭和20年~27年、連合国軍(GHQ)によって剣道が禁止されたが細々と稽古は続けられた。
古賀恒音、宮崎茂三郎、堀正平と交流があった。大阪税関師範。
西川源内、長井長正など、多くの剣士を育てたが段位や称号には無頓着だった。
長井長正先生は昭和35年から吉田誠宏先生に師事する。
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井上勝由(いのうえかつよし)現長正館館長は今年の12月で92歳を迎えるが、
若い頃、長井長正先生と聖和道場に稽古に行ったことがあるらしい。
その時、道場の山側では、阪奈道路の工事をしていたという。
阪奈道路西行きが開通したのは昭和45年(1970年)である。
同じ年(昭和45年)に長正館の道場が開設となった。

(昭和50年4月、長正館創立5周年にて、吉田誠宏先生)

(昭和50年4月、長正館での祝辞、吉田誠宏先生)

(昭和51年1月11日、聖和道場の初稽古、吉田誠宏先生)

(昭和51年1月11日、吉田誠宏先生宅にて、長井長正先生)

(昭和51年1月11日、吉田誠宏先生宅にて)

(昭和51年12月19日、聖和道場における大阪剣道道場連盟研究会にて)
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追記
【参考】「水平の行者 栗須七郎」吉田誠宏のこと
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190825/
【追記】2023年10月5日
東大阪市善根寺まで行く用事があったので聖和道場まで足を伸ばした。
改めて、娘さんに吉田誠宏先生のお話を聞こうとおもったのだ。
ところが敷地は整地され、別の建物が建っている。
近所の方にお話を聞くと、住んでいた吉田さん(吉田誠宏先生の娘さん)は、
数年前に心臓か何かを悪くされて突然亡くならっれたそうな。
残念である。帰りにすぐ近くの善根寺春日大社にお参りしておいた。
ご冥福を祈ります。合掌。