稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№114(昭和63年元旦)

2020年05月16日 | 長井長正範士の遺文


〇高上極意五点
この五点は伊藤一刀斎景久が鐘巻自斉から許された高上極意の技と、その玄理の教えです。

1)妙剣は木に象(かた)どる。
この形は極めてすぐれた巧みなものであり、全く夢想であって、万事空なる所で木の芯がのびるように、のびのびとした調子で勝を完了する執行である。

2)絶妙剣は火に象る。
絶妙剣は妙剣のはたらきをも絶したところである。すべてを焼きつくし、全く無我無心の境地に出入した絶想の場である。しかも一点の火が大火と燃え上がり、一切を無にする執行である。

3)真剣は土に象る。
真剣の仕方の構えは常に真中を指す。土は中であり、すべて物があたって帰るところである。どこへどう高く物を投げても皆土に落ちて来て土に帰ってくる。己が剣は必ず打方に当ってはずれることはない。それは打方の中心を刺し、技の中心を刺しているからである。

4)金翅鳥王剣は金に象る。
金は貴い光をもって、銀、銅、鉄、鉛などの上に臨む。その重さは他にまさる。技に於いては上段の高い位の輝やかしい尊い気分をもって、上から圧するものである。即ち尊い位の威光を備える執行である。

5)独妙剣は水に象どる。
水は最も柔らかで、最も強いものである。水は自らどんな形をも持たず、方円の器に従う応適自在なものであり、然も低きにつく主心があり、どんな隙間へでも侵入浸透する。又、万物を生かし育てる主心がある。これは独妙剣の本音である。水は金の上に、いつしか目に見えぬ間に、露の玉となって、どこからともなく、ひとりで生ずる。それは蒸気が空中に充満しているからである。独妙剣の能動は、いつでもどこへでも充満していて、要に応じて働くものである、と述べられています。

〇ちなみに木より火が強く、火はまた燃えつきて皆灰と化して土にかえる。その土の中に燃然と輝いて姿を表すのは金であり、その最高の金でさえも、いつの間にかその金の上に水滴が乗るのであり、水が一番上であることを順序よく切組の形を作られたのが五点であります。

〇以上は笹森順造先生が「一刀流極意」259頁のところをよく見て頂きたいと思います。尚、蛇足ですが、五点の夫々の形の紹介は中途半端ですが、この項は各々技の解説が本意ではありませんし、又、私自身、形をやりますものの、まだまだ真の理合を体得するまでは道が遠く、従って机上の空論に終ってしまいますので、申訳ありませんが省略させて頂きます。「一刀流極意」247頁→259頁参照。われわれの日常生活に水なくしては考えられないことは前述の通りで、日常の会話でも水を使った言葉が多いことに気がつきます・

水にする。水に流す。水をさす。水になる。水いらず。水入り。水かけ論。水くさい。水ごころ。水の泡。水もしたたる・・・。水も漏らさぬ・・・。水を打ったように・・・・等々、水=無色透明(無)=無心(心)=万物。かくありたいものと思います。今年は辰どし、龍吟じて雲を呼ぶ。勢いにあやかって頑張りましょう。終り
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№113(昭和63年元旦)

2020年05月15日 | 長井長正範士の遺文


水についての教えは既に№102に「一刀湛水」と、№103に笹川良一先生の「水六訓」を書いておきましたが、今回は水そのものを述べたいと思います。

日本の国は世界でも有数の水の恵まれた国であります。そこで、この水とは一体どんなものなのか解明してゆきたいと思いますが、一寸その前に申し上げておきたいのは、私達が生きてゆくためには酸素だけではなく、空気であるということです。即ち空気には酸素以外のものが澤山あり、無機物だけではなく、浮遊している微生物も沢山おります。これ等をすべて含んだ空気であるということであります。ただ地下深く沈んでおったはずの重金属が空気中に浮遊し、その異常物を排除するために酸素だけをやかましく言っているだけなのです。この酸素に関係ある水を主体に申しあげたいと思います。

近年、大阪の水道の水が臭くて飲めたものではありません。又、地下水の汚染もひどくなっております。水はご承知のようにH2Oで表します。これはH=水素。2とO=酸素との化合物ですが、ことのついでに申し上げますと酸素は空気中の1/5ぐらい占めていると言われています。さてその水道の水に、薬を入れておりますが、これは飲むためよりも腐らないように入れているのです。ですから、投下された塩素CI=殺菌用。や、化合力の強い弗素=N。を抜けば美味しい水が出来ると簡単に考えて、今浄水器が、いろいろと出廻っておりますが、然し、薬品を除くと即刻腐ってゆくのです。だから今度は逆に腐った水は飲めなくなります。

水はH2OというからH2Oが一番よい水だと思ってH2Oだけで水の代りをすると到底生きてゆけないのであります。それは水の中にも、空気と同じように、色んな成分、色んな微生物を含んでいるから、これで始めて水の味が出てくるので、どこそこの水が美味しいのと、よく言われますが、本当のところ、よく判らないものです。その証拠に、水割り用のミネラルウォーターを水道の水にかえて、黙って、ミネラルウォーターだと言って出して実験してみても、相手は、やはり、美味しいと言って飲んでいるようなもので、本当は、水の味なんて、はっきり判らないものであります。ただ水が甘いと、美味しいような気がするんですが、これは沢山ある有機物の腐敗過程において、そうなるので、成るべく飲まないようにとは友人の藤井技師の話です。それではどの水が美味しくて飲めるかということを昔の人はよく知っているのです。

それは、地下水の浄化を一番効率よくやるのが、イタドリ(スカンポ)です。スカンポの根は、地下水を最もよく浄化するので、その傍に、井戸を掘って飲んだのです。又、野生のしぶ柿は根が浅いので、綺麗な水でなければ育たないから、昔の井戸を見ると近くに柿の木があるのに気がつくでしょう。ちなみに、スカンポと柿は共存共栄するし、共貪もしますので、お互いにそれなりに牽制しあって、育ってゆくのです。以上、水の基本的なものを申し上げましたが、われわれがよく考えなければならないのは、水は無限の資源ではないということです。

大阪で言いますと、びわ湖の水質が汚濁しており、われわれの飲み水の水質の悪化が進んでいるのです。これは工業化による汚染と、人間の出す雑排物や各種の洗剤等による汚濁で問題になっています。これ等はすべて人間が水の自然を破壊しているのであります。われわれは水に対する罪を反省しなければなりません。アフリカあたりの水不足に比べ、われわれは余りにも水を粗末にしすぎているのではないかと、大いに反省しなければなりません。又、水害を見ても、天災よりも人災の方が多いことを思い知らされるのであります。

われわれの先祖は水によって育ち、村や町が発展してきたのであります。川あるところ、湖のほとり、海に面した河口のほとりには人が集まり、住まいし、水の恩恵をうけて来ておるのであります。このような意味で、われわれはもっともっと水を大切にしなければなりません。水は実に人間だけでなく万物を育む源であります。次に小野派一刀流組太刀の高上極意五点の独妙剣=水。について申し上げます。
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奈良の地名由来辞典を買いました。

2020年05月14日 | 旅行や街角メモリー


「奈良の地名由来辞典」という本を見つけて衝動買いしてしまった。
東京堂出版 池田末則編 ネットで税込み送料込みで 3,080円。

さっそく気になるところを調べてみる。
(下の説明文は抜粋で、文章も少し読みやすく変えています)

登美ヶ丘
--------------------
「神武記」には神武天皇が生駒山を越え、鳥見の長髄彦(とみのながすねひこ)と戦った時、
飛来した金鵄(金色のトビ。霊鳥)の霊光によって勝利を得たといい、「時の人よりて鵄邑(
とびのむら)となづく。今、鳥見(とみ)というは、これ訛れ(よこなばれ)るなり」とある。つまり、
地名、鳥見にちなむ説話であって史実ではない。
--------------------

生駒
--------------------
「神武記」に、天皇が胆駒山(いこまやま)を越え大和に入国したという記事がある。旧郡名を
平群(へぐり・辺の国)といったように、イコマはイ(接頭語)+クマ(隅・隈)を意味する語であろう。

走り読みだが、甘樫丘(あまかしのおか)、三碓(みつがらす)、多武峰(とうのみね)、
多聞山(たもんやま)、というところを読んでみたが、なかなかに面白い。

二上山(ニジョウザン)は昔は「ふたかみ山」と言っていたこと、
真美ケ丘という団地名は、古来の大豆山(まめやま)、馬見山(まみやま)から来たもの、
奈良(ナラ)という地名は平(なら)した所という意味もあるが、
平(なだ)らかにつづく丘陵(奈良の北に位置する平城山・ナラヤマ)を形容した
・・など、興味深い記述がたくさんある。

日本語が誕生してあと漢字が入ってきて、
やまと言葉を漢字に置き換えたせいか、同じ言葉でも漢字の表記は様々で、
それが音読み訓読みごっちゃになったり、書き写すうちに間違ったり、間違いが定着したりして、
さまざまな地名が生まれてきたというのもわかってきた。

上に書いた「鳥見の長髄彦(とみのながすねひこ)」も、
昨日は「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」と書いたのでよくわかる。

いずれにしろ、案外、奈良を知らないものだ。

こうなりゃ「ディスカバリー奈良」である。
この本で調べ、地図で目星をつけ、バイクを使って奈良を楽しもう。


(5月1日の飛火野前の1枚から)
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地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見(続き)

2020年05月13日 | 旅行や街角メモリー
続きである。

翌日、出勤前に家の近くの神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑に寄ってみた。
ここは自宅から1キロほどの距離だが、その存在はずっと知らなかった。


(富雄川沿いの出垣内バス停近くにバイクを停める)


(神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑と、天忍穂耳神社の案内)


(神武天皇聖蹟鵄邑顕彰碑)


(東征の時に長髄彦を討つおり金鵄を得て、のち鵄邑とした・・とある)


(この碑は皇紀2600年・昭和15年に建たてもの)


(奥まで登ると天忍穂耳神社があった)


(神社は小高い山の上にある)

天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)は日本神話に登場する神。
アマテラスの子で、地神五代の二代目。


(そこそこ高低差があり、深い山の中にいるような気にもさせる)

調べてみると長髄彦(ながすねひこ)は、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)。
ここに「登美ヶ丘」の「登美」の文字を発見する。地元の有力者であったそうな。

主君は邇芸速日命(にぎはやひのみこと)で、神武天皇に抵抗したため、
主君の邇芸速日命によって殺されたのだそうな。

神武天皇の東征の話は、地名にあちこち残っていて興味が沸いてきた。
事務所の近くの「盾津」という地名も、盾を並べて防戦した場所だという。

gogleの地図で周辺を調べると、興味深いものがいくつもある。
ヒマを見つけて訪問してみようと思う。


(生駒市上町の鵄(トビ)山バス停)


(饒速日命(にぎはやのみこと墳墓)

邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の妻は長髄彦(ながすねひこ)の妹で御炊屋姫(みかしやひめ)である。
御炊屋姫(みかしやひめ)は別名、登美夜毘売(とみやびめ)とも言う。


(ここも毎日通う道のすぐ脇にあるがまだ寄っていない)


(王龍寺は父母の墓がある寺である)(ここにも鵄(トビ)神社があった)

金鵄(きんし)は、『日本書紀』に登場し、神武天皇による日本建国を導いた金色の鵄。
鵄はトビであり、トビ、トミ、トリミは同じものを差している。

ひょんな事から、日本書紀や古事記に興味が出て来た。
日本の神話を読んで、あらためて地名を見ていくと面白いかも知れない。


(師匠の店に寄ってみたがあいにく閉まっていた・・・残念!)
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地名探索・・登美、富雄、登彌、鳥見

2020年05月12日 | 旅行や街角メモリー
私の実家は登美ヶ丘という地名だが小さなころは二名町と言っていた。
小学校の時に二名町が登美ヶ丘という地名に変った。
登美という地名は良い響きだが深い意味があるとは思っていなかった。

気が付けば、近所には「とみ」の響きを持つところがいくつかある。
ふと思いついてバイクで散策に出かけてみた。
今の時期、休日は無く、ほんの合い間である。


(自宅に近い西登美ヶ丘バス停)


(近鉄奈良線富雄駅)

富雄駅は1941年(昭和16年)9月~1953年(昭和28年)4月まで鵄邑駅(とびのむらえき)だった。


(とりみ通り)


(鳥見町の富雄団地)


(登彌神社)


(登美山霊山寺)

他に気になるところがあったが全部回ることは出来なかった。

富雄は最初、鵄邑(とびのむら)と言ったらしい。
後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった・・という。

新興住宅地なので「登美」は新しく作ったと思ったが随分歴史がありそうだ。
古代史にはあまり興味が無かったが、これを機会に調べてみようと思う。
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生駒高校剣道部(昭和45年、奈良中央武道場前の写真)

2020年05月11日 | 剣道・剣術
写真を整理していたら、昨年亡くなった車谷健三先輩の手紙と写真が出て来た。
以前に「奈良県立生駒高等学校剣道部(昭和48年度卒業)」という記事を書き、
その追記に車谷健三先輩が亡くなったことを書いたが、
その時、この手紙を探していたのが見つからず今見つかったのだ。

奈良県立生駒高等学校剣道部(昭和48年度卒業)2019年9月21日
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20190921/



写真は奈良中央武道場前で撮影されたもの。
2年上の車谷健三先輩は左から2番目でコートを着ている。

ちなみに左端は1年上の水野泰嗣先輩(現在、奈良西少年剣道クラブの指導者)で、
右端は1年上の吉田先輩。他の2名は見たことがあるような無いような、そんな記憶しか無い。

おそらく車谷先輩が3年生の引退試合に出た時のものだと思う。
そうであれば、この時私は1年生で、たぶん剣道部に入部した頃だと思う。



上は車谷先輩からの手紙。

2016年10月1~2日に洞川温泉に旅行に行った時に、偶然、車谷先輩に会ったのだ。
その時にお話しして、翌日、写真とお手紙を送っていただいたのだ。

いずれにせよ、生駒高校に入学していなかったら剣道はやってなかったと思う。
そういうわけで、車谷先輩と出会ったことは私の剣道人生の大切な接点でもあったのだ。
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最終回 鍛錬的稽古法の意義 全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月10日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 高野佐三郎範士は、その著『剣道』(大正4年刊)の一節において、「剣道の特色は其の鍛練的練習なるの点」にあり、「是れ剣道が発育的又は矯正的なる諸多の運動法に対して特長とする所なり」と述べています。もちろん、他の武道・スポーツ種目にも鍛練的なトレーニング方法はありますが、剣道では、鍛練的練習に独特の意義や価値観がもたれているように思います。剣道における「鍛練的」な練習といえば、「切り返し」「打ち込み稽古」「掛り稽古」などが思い浮びますが、たとえば、寒稽古の期間中には切り返しと掛り稽古中心の練習メニューを組むということは、今も多くの道場で行われています。あるいは戦前の武道専門学校や国士舘専門学校では、下級生の間は切り返しや掛り稽古が稽古の中心であったとも聞きます。

 前回みたように、近世後期には竹刀剣術技術の細分化や体系化が進みましたが、一方で、鍛練的な稽古方法も工夫されました。この連載で何度も引用した『千葉周作先生直伝剣術名人法』のなかで著者・高坂昌孝は、「打ち込み」について「打ち込みとは、他流には余り無きことにて、実に剣術の上達を望む者は此の打ち込みの業を欠きては達者の場に至ること甚だ難しと云ふ。故に当流初心の者には、一ヵ年余も打ち込み計り稽古にて試合ひを禁ぜしものなりと」、「寒稽古30日間は毎朝3時より夜明け迄は、達者・未熟に依らず打ち込み計りにて」、「但し此の打ち込みの業は向ふの面へ左右より烈しく小業にて続け打ちに打ち込み、或は大きく面を真直ぐに打ち、或は胴の左右を打ちなど為ることにて、至極達者になる業なり」と述べています。

 また、同書では「打込十徳」として打ち込みの効果が10項目挙げられていますが、なかでも注目したいのは「息合ひ長くなる事」です。高坂は打ち込みを「他流には余りなきこと」と記していますが、少なくとも近世後期に盛んになったいわゆる幕末新流とよばれる撃剣流派では、「息合(呼吸)」を長く強くするような稽古法がそれぞれの流派で工夫されていたと思われます。『撃剣叢談』(寛政2年)には、神道無念流について「勝負あとをつむる也」とあり、また鏡心明智流について「跡をも詰てきびしく打合也」と記されています。以前紹介した『神道無念流剣術心得書』(天保頃)にも、直心影流について「敵(直心影流)は必(ず)後をかけるなれば、此方も多少の前後は論ぜず打だすべし」とあります。つまり、「あとをつめる(かける)」とは、一本打ちの打突で終わるのではなく続けざまに技を繰り出し、厳しく攻め立てることを意味しているようです。続けざまに厳しく攻め立てるためには、普段から打ち込み稽古のような「息合の稽古」を積んでおかなければ、難しいことと思われます。

 息合を長く強くすることの重要性はそれ以前から松平定信によって唱えられていました。定信は奥州白川藩主であった頃から家士に対して、「鑓も剣も、具足を着て突あひ打あふ流儀を学ぶべきことなり」(『修身録』)、「鑓・太刀の修行も稽古場にて斗りたたき合たるは用に立たず、譬(たとえば)、竹刀(ちくとう)(稽古鑓)・しなへ(剣術の撓)をかつぎ、五里七里も参り、其足を休めず鑓を遣ひ、しない打抔致し、身体足腰の草臥れたる時の働きをためし、息合の稽古致し申すべく事に候」(『白川候伝心録』)と述べ、道具を着用して遠慮のない打ち合い・突き合いをすることと、疲労蓄積時にこそ「息合の稽古」を積んで自らの心身の働きを確かめておくことが、「まさか(緊急)の用」の折に重要であると説いています。

 高坂のいうように、「打ち込み」には剣道技能上達のための必須の総合練習という側面があります。加えて、たとえば寒稽古などにおいて、精魂尽きるような切り返しや打ち込み稽古、あるいは掛り稽古を繰り返し行うことは、呼吸機能を強くすることはもとより、疲労蓄積時の自らの心身の働きを認識させ、ひいてはそれが、緊急時・非常時対応のトレーニングになるという考え方が継承されていることによるものと思われます。

 私の担当も今回で最後となりましたが、それぞれの技術や稽古法の形成に、先人達の工夫や創意、価値観の継承などを汲み取っていただけたならば、大変うれしく思います。
(おわり)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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第5回 竹刀剣術の技術形成と体系化 全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月09日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 前号では、剣道における面技重視の技術観が、近世後期に生れてきたことについて述べました。一方で近世後期には、竹刀剣術独自の技術研究や体系化も急速に進みました。前記したように、剣道具(防具)を使用しての剣術稽古は1600年代半ばまで遡ることができますが、それは各流派における修練上の必要(安全面への配慮など)に応じた簡素な剣道具を使用してのものでした。その後、1700年代後半からは、広範囲な廻国修行や他流試合を行う者も一部には出てきましたが、剣道具や剣道技術についての交流や情報交換が飛躍的に進んだのは、他流試合の禁が解かれた天保期(1830~1844)以降のことでした。

 天保期に水戸藩の郷校の剣術師範を務めた、助川郷(現日立市)の郷士・武藤七之介が書き遺した『神道無念流剣術心得書』には、神道無念流の立場からみた一刀流(中西派)、直心影流、鏡新明智流、柳剛流、新陰流(肥後)、義経流、浅山一伝流の技術的特徴、およびその対処法が克明に記されています。たとえば一刀流は、「竹刀を下段にもち、此方の胸板より面へかけてつき(突き)、左右の小手を打、胴を打つ」という特徴があるので、これに対しては、「敵より先へ打ちを出し、小手より面へしげくうつべし。敵のつき後になり、此方先になる」、あるいは「必立合て、つき有と思ふべからず。つきもうちも皆一様のものなり。つきありと思へば、此方身体乱て必まくべし」という対処法(心得)が記されています。

 また、鏡新明智流については「左りの足を先へ出し上段に取。上段より此方の面・小手をうつ。其上段のすみやかなる事、電光の如し」という特徴が記されています。この左上段からの素早い打撃に対しては、「間遠きに敵の上段此方の頭へ来る節は、しかとうけとめ敵の左脇下へうちこむべし」、あるいは「右の小手へ来る時は、さしとめにて敵の右の小手より頭へかけてうつべし」とあります。

 これらは、今日の剣道においてもそのまま通じるような技術や心構えであり、現代剣道の技術的ルーツはこの時期に芽生えたものと思われます。

 同書にはこの他にも、この頃までの胴(竹具足)が身体運動の自由を妨げる構造で、組打には不向きであったこと。また、胴を使用しない流派と立ち合うときには、こちら(神道無念流)も胴を使用しないことや、柳剛流のように足(脚)も含めて「五尺の体をきらひなく」打ってくる相手には、こちらも「敵の五尺の体の隙を見て」打ってよい、というように相手との関係において公平性を保とうとする考え方があったことなど、興味深い記述を多く見出すことができます(『剣道の歴史』資料編所収)。

 さて、時代が進んで弘化・嘉永期になると、さらに竹刀剣術の技術は整備され、体系化されて行きます。千葉周作の門に弘化期から嘉永期にかけて学んだ高坂昌孝(姫路藩)が、周作の校閲を得て北辰一刀流の竹刀打ち技術を分類整理したのが、いわゆる「剣術六十八手」(『千葉周作先生直伝剣術名人法』所収)です。「剣術六十八手」は、面業二十手、突業十八手、籠手業十二手、胴業七手、続業十一手から構成されていますが、個々の技は今日の剣道においても有効と思われるものが多く(なかには、全く行われなくなった技術もありますが)、その後の剣道技術の基盤ともなりました。また、一刀流の組太刀(形)が応じ技中心であるのに対し、剣術六十八手はしかけ技が多く、加えて組太刀にはない片手技も十手含まれていることから、従来の形剣術とは一線を画した竹刀剣術独自の技術体系であったことが、小林義雄氏らの研究で明らかにされています。

 前出『神道無念流剣術心得書』においては、「上段」を専らとし、「浮足」に構えての早業が特徴と記された直心影流が、『剣術名人法』では「其の事すたれて上段にさへ取る者も稀にして、一刀流の下段星眼となり」と評されているように、弘化・嘉永期には、竹刀剣術流派の技術的特徴の喪失がはじまり、竹刀打ち技術の画一化が始まっていることもみてとれます。これは、天保期の他流試合の解禁以降、廻国修行や藩邸御前試合などが盛んに行われるようになり、そのことが技術や用具の情報交換や共通化をもたらしたことに起因しています。
(つづく)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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第4回 面技重視の技術観 全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月08日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 剣道においては、面技(とくに正面打ち)を多く修練することが尊ばれます。たとえば、種々の素振りで最も多く行われるのは、正面打ち素振りだと思います。また、切り返しも、最初と中と最後に正面打ちを入れるのが一般的です。互格稽古の場面でも、どちらかが最後に面を打ったところで終わる、という光景もよくみられるところです。こうした面技に重きを置く技術観というものは、どのようにして形成されてきたのでしょうか。

 現在の試合規則のうえでは、面部・小手部・胴部・突部の四打突部位間に軽重はありません。しかし昭和初年頃までは、審判心得のうえで面技が他の部位に比して重視されていました。昭和4年の天覧試合を記念して発行された『武道宝鑑』のなかには、高野佐三郎・中山博道・斎村五郎三範士の連名による「剣道審判の心得」がありますが、そこには「飛び込み面は稍々軽くも採る」、「甲が先に胴を撃ち、一瞬の後に乙が甲の面を確実に撃ちたる時は、前後の相撃ちとす」、「甲が先に篭手を撃ちて、乙が稍々後れて左手横面を撃ちたる時も相撃ちとす」と記されています。これらの文言は、明治43年に大日本武徳会山形支部が発行した小関教政述『剣道要覧』のなかにもほぼ同様の表現で記されていますので、明治末年から昭和初年頃まで、武徳会の共通見解であったものとみて良いでしょう。

 しかし面(頭部)を打つことに価値を見出すことは、江戸時代の中頃まではそれほど一般的ではありませんでした。荻生徂徠などは享保12年に著した『鈐録(けんろく)』(巻十一)の中で「敵の頭を目当にして打つを第一とする流は、治世(泰平の世)の結構なり。尤、冑を打わる事もあるべけれども、冑には殊にきたひ(鍛え)に念をも入るれば、戦場には遠き流なりと知るべし」と述べ、戦国期の介者剣術から泰平期の素肌剣術へと移行したなかで、頭(面)を打つことを主眼とする流派がでてきたが、それは甲冑を着用した戦闘からは乖離したものであると指摘しました。

 その後、剣道具(おもに面と小手)が1700年代末までには流派を越えて広く普及し、天保期以降は他流試合の解禁もあって流派間交流も進みました。そうしたなかで、面技は他の技に比して難しいものであり、その難しいことをあえて修練することに価値がある、という考え方が流派を超えて広まってきました。

 天真白井流を学んだ筒井六華という人が著した『撃剣難波之楳』(安政5年)には、「業の内、上段より快く面を打を、搆第一とす」、「面を打には上段を第一とすれども、至てなしがたき業なれば、晴眼・下段より打て可なり」と述べています。また、神道無念流を学んだ小野順蔵という人は、他流の者からなぜ突と胴を打突しないのかと聞かれた時、「突・胴ハ成ヤスク、頭ト篭手ハ切難キ処ナリ。依テ、常ニ難キ処ノ修行ヲ先キトシテ、易キ処ハ学バザルナリ」と答えています(『神道無念流剣術免許弁解』、慶応3年、『久喜市史』所収)。さらには前号で紹介した内藤高治範士の「一番打悪い所は敵に対して面を撃つ」という言葉も、これらに連なるものだと思います。

 他方、幕府講武所頭取を務めた田宮流の窪田清音は、面を打つことの重要性について初学者指導の観点から述べています。窪田は『剣法略記』(天保10年)において、「初学び」の段階では「面に篭手に数多くうつべきことなれど、夫がうち面をうつことをむねとして、十度のうち面を七度、こ手を三度うちならふべし」といい、このように心掛けなければ、技の「はたらきかたよるもの」と述べています。また、これらの技は「生れ得しままの正しく直なるかたち」を崩さないようにして打たなければならない、とも説いています。

 現在の『剣道講習会資料』においても初心者の正面打ちについて「正面打ちはあらゆる技の基本となるものであり、多くの時間を費やし体得させるように徹底指導することが肝要で」と記されています。正面打ちが剣道技術のなかで最も大事なものとして捉えられてきた理由は、「難しいからこそ価値がある」、「正しい姿勢による面を多く打つことを心がけることによって、初学段階における技のはたらきの偏りを防ぐ」という価値観や指導方法論が受け継がれていることによるものだと思います。
(つづく)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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第3回「踏み込み足」の形成過程(3)全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月07日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 前号でみたように、幕末の北辰一刀流ではすでに、技に迅速を得るために「踏み込む」ことや「飛び込む」ことが認められていました。ただし、そのことは一定の理合のもとでなされていました。

 『千葉周作先生直伝剣術名人法』から、さらに詳しく見て行きましょう。同書「第三 剣術修業心得」の「相下段・相星眼にて向ふの面を打つ節」(原文はカタカナ)には、相手の切先の上がり下がりにかまわず飛び込んで打つというのは甚だ無理であるから、「向ふ(相手)の切先下がりたる処を相図に打つべし」とあります。また、相手は突こう打とうと構えていて、こちらが大きく振りかぶると必ずそこへ打ち突きを出してくるので、「太刀を半ば振り上げ打つべし。勿論、一足一刀に深く踏み込み打つを善しとす」と続きます。

 一足一刀に深く踏み込む理由は、「向ふの切先に恐れ、半信半疑に打ち出せば、三本目の突(面抜き突)などに当たるものにて、深く踏み込み打てば、向ふの太刀あまりて突くこと叶はぬ者なり。試めしみるべし。之れ所謂、『切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ踏み込み見れば跡は極楽』と云ふ歌の処なり。依て、兎角猜疑心を去り、一足一刀に打つこと肝要なり」としています。つまり、「猜疑心をもたず、深い踏み込みによる(半分の振りあげでの)面を、一足一刀に打つことによって、相手の剣先や突き技を克服することができる」と説いています。ここには、今日の剣道につながる指導理論の一端がみてとれます。

 北辰一刀流におけるこのような考え方は近代に至っても引き継がれ、同流を学んだ内藤高治範士は、「無闇に胴を打たがる。是が悪い。胴といういものは一番打易い。一番打悪い所は、敵に対して面を撃つ(そのため)には体を捨なければならぬ」と述べています(「剣道修行についての心得・上」、『武徳会誌』九、明治43年)。すなわち幕末から近代にかけて、「相手の剣先や突き技を恐れず、体を捨てて、踏み込んで面を打つ」ことに価値が認められるようになったのです。

 しかし、体を捨て、踏み込んで面を打てば、そこには「余勢」も発生してきます。そのことに対して(この連載の第1回目で見たように)刀法的観点から明確に否定する考え方もあれば、反対に踏み込み足を剣道技術のひとつとして積極的に位置づけ、その結果として発生する余勢も容認しようとする動きが大正期には生まれ、それらのことが今日にまで続くある種の相克を生んでいます。

 現在の『剣道講習会資料』においても、足さばきはあくまで「歩み足・送り足・開き足・継ぎ足」の4つが基本とされています。ただし、現代剣道では多く踏み込み足が用いられていることを追認したうえで、送り足のひとつの発展した形態として踏み込み足の指導法が初級者の段階で示されています。一方、上級者に対しては極端に強い踏み込み足を戒め、送り足・開き足を多用して多彩な応じ技を支える足さばきに習熟することが求められています。こうした捉え方の背景には、打突時の足さばきについても、あくまで「一足一刀に打つ」ことを理想とする考え方が受け継がれているように思われます。

 では余勢の問題はどのように捉えたらよいでしょうか。故小森園正雄範士は、踏み込み足と余勢について「右足を踏み込んで打突したら、左足を素早く右足の後ろへ送り込むようにして引き付け、体勢を立て直して打突を極め、以後、余勢に乗って送り足を進める。送り足を進める歩幅は『一歩・半歩・五分…』と狭くして行く」と教導されたとのことです(大矢稔氏編著『冷暖自知―小森園正雄剣道口述録』)。これは、左足の素早い引きつけにより「体勢を立て直して打突を極める」ことに意義があり、それに続く送り足の歩幅を順次狭くして行くことで、必要最小限の余勢で速やかに次の対敵姿勢に移る、という教えです。

 この指導法は、小森園先生が、関西の先生方の間で伝わった教えを採り入れられた(編著者である大矢先生談)とのことですが、今日の一部の試合にみられる不必要なまでの余勢や、とってつけたような残心をみるにつけ、一考すべき教えであると思います。
(つづく)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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第2回「踏み込み足」の形成過程(2)全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月06日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 踏み込み足を剣道技術の一つとして位置づけ、それに伴う余勢も容認する著述が大正時代に一部であったことは、当時すでに剣道の実践場面において踏み込み足とそれに伴う余勢が多く出現し、そのことに対する理論付けが必要となっていたことを意味しています。では、そもそも余勢を伴うような踏み込んで打つ技術はいつ頃から出てきたのでしょうか。少し遠回りになりますが、剣道具(防具)を使用した剣術の発展過程を最初に見ておきたいと思います。

 史料のうえからは、1660年代頃には「皮具足」や「面顋(めんあご)」と呼ばれる道具を着用して稽古をする流派があったことが、明らかになっています(中村民雄氏「剣道具と道場の発達」、『剣道の歴史』参照)。その後関東においては、正徳年間(1711~16)の直心影流における道具の改良や、宝暦年間(1751~64)の一刀流中西派におけるその採用などを契機として、剣道具(主に面と小手)を使用して稽古や試合を行う流派が増え、1700年代末までには、全国的に行われるようになりました。

 ただし、この頃までの剣術について堀正平著『大日本剣道史』(1934)では、「1メートル(三尺三寸)内外の撓(袋竹刀)を持って、進退は常の歩行の如く(今日の形と同じ)した。即ち右左右、又は左右と進んで切るのが普通であった」としています。

 その後、筑後柳河(柳川)藩士で剣術と槍術の師範であった大石進が、天保年間における二度の江戸在勤(1833年と1839年)中、五尺三寸の長竹刀を駆使して江戸中の道場を席巻します。そのことを契機として長竹刀が急激に普及しますが、「柄が八寸以内の竹刀の時は、常に歩む通りで宜かったが、長竹刀に変ると柄も随って長く一尺三寸許りにもなったので、歩んだのでは構えが動揺する、夫れを動かすまいとすれば窮屈であるから、形のように歩んだのを止めて、右左と順に足を運ぶ様に変った。今日の足遣ひは、この時からで昔の足遣ひに比して板間で早い事をするには便利であるが、地面に於ては、ハヅミが出ぬから沢山は進み悪い」と、剣術において「送り足」が多用されるようになり、「板間での剣術」すなわち竹刀剣術独自の足さばきが生成したことに、堀範士は言及しています。

 残念ながら堀範士はこれらの記述の論拠となる出典を明記されていませんが、大石を破ったという逸話の遺る男谷精一郎(直心影流)も『武術雑話』のなかで、「近年稽古に用ひ候竹刀長寸に相なり、其うへ先きをいかにも細くいたし、長きは鍔先き三尺六七寸、柄共に五尺余のしなへを用ゆる人多し。稽古の勝口には寸長き利多し。―中略―。是、実事と甚敷懸隔致し候ことにて、真剣にては目方も重く、中々竹刀の所作の如く双手の突撃共に相成り申さず」と述べていますように、長竹刀の流行が、従来の剣術とは違った竹刀剣術独自の技術形成の一因となったことは明らかなようです(榎本鐘司氏「幕末剣道における二重的性格の形成過程」、『日本武道学研究』参照)。

 天保期には、老中を務めた水野忠邦が文武奨励の立場からそれまでの他流試合の禁を緩めたことから、同期以降他流試合が表立って行われるようになりました(大石の他流試合もこのことが背景にあります)。各藩の江戸藩邸においても御前試合が行われるようになりますが、嘉永4年(1851)に藤堂藩江戸藩邸で行われた試合の様子を、久留米藩士・武藤為吉が師である加藤田平八郎(加藤田神陰流)に送った書簡の中に、千葉周作(北辰一刀流)の次男・栄次郎の剣術を評した部分があります。「上段・中段・下段何とも上達、なかんずく、誓願にて真に試合の節は、踏込で撃突致候。其神速成事、中(あたり)と云、気前と申、実に一点の申分御座なく」とあり、「踏込」を伴う迅速な技を繰り出していたことがみてとれます(村山勤治氏「鈴鹿家蔵・加藤田伝書『剣道比試記』について」参照)。また、弘化年間から嘉永年間にかけて千葉周作の門に学んだ高坂昌孝(姫路藩)が遺した『千葉周作先生直伝剣術名人法』にも、「踏み込み」や「飛び込み」という記述が多くみられます。幕末の北辰一刀流では、技に迅速を得るために「踏み込む」ことや「飛び込む」ことが認められていました。
(つづく)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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おかげさまで忙しくしています。

2020年05月05日 | つれづれ
世の中はコロナ騒ぎで大混乱だが、とんぼ堂は実店舗がなく、
ネットショップだけで商売をしているので休店の必要が無いのはありがたい。

毎年、連休前に出荷の山が来るが、
今年はさほど忙しくもなくコロナのせいかと嘆いていた。

ところが5月に入り、急に注文が増えだし、
4連休(3456)の予定を返上して5日を出荷日にした。
本日など、昼飯も食えなかったほどだ。

出荷はメール便が、97通、宅配便が58個。
合計で155件の出荷数だった。
1日の出荷数としては過去最大。

出荷と言っても、ただ梱包するだけでは無い。
1つの注文が入ると、注文を確認し、メールを打ち、伝票を出し、送り状を作り、
それから梱包作業に入り、出荷の段取りを15時までに終わらせる。
出荷後は、最終チェックし、最後にメールを打って完了である。
これを155件するわけだ。

間もなく高齢者の仲間入りである。

50才台までは1日15時間勤務も平気だったが、
最近は12時間も仕事をすると目がショボショボする。
よくやったと自分を褒めたいが目が限界。
だからきょうはもう帰る。



忙しいのはこの時期だけで、
冬はヒマでヒマでボケるんじゃないか・・と思う日もある。

そんなわけでビンボーは続くのである。
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第1回「踏み込み足」の形成過程(1)全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載

2020年05月04日 | 剣道・剣術


全日本剣道連盟「剣道技術の成り立ち」より転載します。
https://www.kendo.or.jp/knowledge/books/

全剣連 広報・資料小委員会 委員長
明治大学 国際日本学部 教授
長尾 進

 剣道という身体運動文化の中核を成すものは、何といっても「有効打突」(一本)であると思います。現行の試合・審判規則における有効打突は、「充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする」(第12条)と規定されています。また、指導の場面では、「気・剣・体」の一致した打突が有効打突であると指導される方も多いでしょう。その気・剣・体の一致については、「気は打突の意志とその表現である掛け声、剣は竹刀、体は踏み込む足と腰の入った姿勢をそれぞれさし、三者が打突時に一致すること」(『幼少年剣道指導要領』)、あるいは、「気とは気力のこと、剣とは竹刀操作のこと、体とは体さばきと体勢のこと。これらがタイミングよく調和がとれ、一体となって働くことで有効打突の成立条件となる」(『剣道和英辞典』)と説明されています。

 剣道における「気」論をめぐっては、埼玉大学の大保木輝雄先生に詳細かつわかりやすく前シリーズで解説していただきましたので、このシリーズでは主に剣(竹刀操作)と体(体勢を含めた足さばき・体さばき)の変遷についてみて行きたいと思います。

 前記の気・剣・体一致の説明に、「体は踏み込む足と腰の入った姿勢」(『幼少年剣道指導要領』)とあります。この「踏み込む」動作というのが、剣道の運動形態を特色づけているといえましょう。もちろん、古流の形などのなかにも、部分的・瞬間的な踏み込み動作はみられます。しかし、多くは歩み足・送り足・開き足などの足さばきによる動作が一般的です。そこでまず、この「踏み込む」動作に焦点をあて、それが剣道の歴史のなかでどのように生成し、技術として認知されてきたかについて述べてみたいと思います。

 しかし、このように認知されてきたのはそれほど古いことではありません。昭和のはじめ頃には、踏み込み足に伴う余勢については議論がありました。中山博道範士は、「一本の太刀を打っても今は民衆化の剣道の方法というものは一本打ってポンと打ちますと、対手を打つと手で打ってあとヒョロヒョロと二足三足位前に出て行く。ああいうことは船の上だったらどうするんです。相手を倒しても自分は水の中へ飛び込んでしまう。あれは一足一刀で打つと共に足の数だけ打って行かねばならぬ」(慶応大学校友会誌『つるぎ』第6号、昭和9年)と述べていますが、日本刀の操法に精通されていた中山範士ならではの見解で、明確に余勢を否定されています。

 一方、現実にはこれ以前から、踏み込み足に伴う余勢(中山範士のいう「民衆化の剣道の方法」)は、試合や稽古の場で多く出現していたようです。高野佐三郎範士が指導した東京高等師範学校の卒業生のなかには、踏み込み足に伴う余勢をむしろ積極的に容認し、これに理論的根拠を与えようとする人たちもいました。金子近次著『剣道学』(大正13年)では、踏み込み足を「踏切」として、図・写真入りで詳細に記述されています。また、富永堅吾著『最も実際的な学生剣道の粋』(大正14年)では、「乗込み面」として、「全然我が身を棄てて一刀のもとに相手を制しようとする撃ち方で、―中略―、刀を振上げると同時に、思いきって一足跳に深く乗込み、―中略―、そうして余勢をもって相手を押倒すようであるがよい」とされ、踏み込み足とそれに伴う余勢まで明確に肯定されています。
(つづく)

*この『剣道技術の成り立ち』は、2005年10月〜2006年3月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
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№112(昭和63年元旦)

2020年05月03日 | 長井長正範士の遺文


さてこの露のように、無から有に、有から無に、大自然そのままにくりかえしている。俺は剣道でいう静中動あり、動中静あり、ということを道場で人形相手に日夜創意工夫して大宇宙の眞理に溶け込む自分の剣道=心を求めんがため苦しみに苦しみを重ねて修行しているんだよ。俺はこうして剣道を自分で作りあげていってるんだ。剣道家の大切なのは自分で自分を苦しめることだ。敢えていう。岩の間に浸みこんだ水が、つゆの雫となってポタンと落ちるまでの苦労は一生かかっても判らん。と話され、次の唄を詠まれた。

「枯れすすき、昔思えば野原のすすき、露と遊んだこともある」

これは端唄の一節にあるそうです。それを受けて、うたいで次のようにうたった。
「露はすすきと寝たという、すすきは露と寝ぬという、寝たか寝ぬのか、すすきは露を宿しけり」
「炭俵、昔は露を宿しけり」と最後に都都逸のひとくだりでしめくくった。

以上を要約すると、今はすっかり老いぼれて枯れ果てたすすき(かや)ではあるが、こんな枯れすすきでも昔の若い時代は露と浮き名をやつした(朝つゆを穂にうかべた)こともあると、しゃれた唄いいかたをした。これを受けて謡曲の一節で露(うら若き女性)はすすきと同衾したという(穂につゆがたまったから、そういうた)然しすすきは露と寝たことはない、と言いはるが、果してどうか?寝たか寝なかったのか、よくよく見るとすきはつゆを宿したわい。(孕む)やっぱり露のいうことが本当であったという意味でこれをうけた都都逸の一節で、今迄若い時から浮名をやつし露と遊んだ時代もいつしか過ぎ去って枯れすすきとなり、老後最後のお役に立つため刈りとられ炭俵として使われ、中の炭も使い果て、俵だけ残ったが、はかなくもこの俵も最後に焼かれてしまって灰になった。こんな炭俵でも露を宿したこともある。嗚呼人生のはかなさよと言わんばかりである。以上の唄は露とすすき(かや)とのかかわりを静中の動をうまく粋な唄で表現しているではありませんか。

〇そして先生は私に次の色紙を下さったのです。風雅な山里の一軒家に春の花がほころびかけている風景を下に画かれ、その上に書かれている字は何んとも言えぬ風流な字で、長閑な山里の風景に溶け込んでおります。

世逃獨座聖和里
東風花綻春再廻
閉門尋日思剣心
剣即心而心剣也
思量今知天地心
八十五爺 誠宏印

意解。俗世間と離れて山里の聖和道場に住まいしている。東=春風が吹いてきて花もつぼみをほころばせて咲き始めて再び春がやってきた。自分は門を閉ざして(閉じこもって)剣の心をさがし求めているが、この時期になって、ようやく剣は即ち心であり、心は剣であるということを思いはかって、今天地即ち大宇宙の森羅万象のすべてが心であるということを知ることが出来た。と書かれたのです。八十五才にして悟られた偉大なる先生に仕えた私は幸せ者よと感激して辞した。終り

※吉田先生の関防印は「智仁勇」です
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何もないので猫の写真15枚(2020年その1)

2020年05月02日 | うちの猫の写真
さすがにブログを毎日書いているとネタが無くなる。
いや書く時間があれば頭をひねるのだがこの時期はムッチャ忙しい。
忙しいと手抜きの猫の写真。

猫の写真は食卓の上に置きっぱになっているSONY NEX-5が専用機だ。
落して電池蓋が壊れ、我流の雑な修理で廃棄を免れたカメラ。
撮りたい時に撮るのは良いのだが、撮りたかった場面や猫の表情はまず撮れない。
猫はじっとしてくれないからシャッターチャンスは逃げてしまうから。
良い猫写真を撮ろうと思ったらカメラの腕ではない。
根気と粘り、そして充分な時間が必要なのだが自分にはどれも無い。
無いので良い写真はほとんど無い。

新しく「うちの猫の写真」というカテゴリーを作った。

今までは「写真・カメラ」のカテゴリーのうちだったが、
テキトーに撮った写真をテキトーに載せるのにこっちのほうが都合が良い。
膨大な写真の中から良いと思ったものを順番に15枚ずつ紹介するつもり。
選び抜かれた写真では無いのでご容赦を。


(新聞を読む月ちゃんと星ちゃん)


(振りむいたのは星ちゃん)


(ストーブに当たる私に寄りそう星ちゃん)


(ひなたぼっこの月ちゃん)


(新聞は読まないみーちゃん)


(何を考えているのやら)


(寄り添って寝ている月ちゃんと星ちゃん)


(猫タワーで寝ている星ちゃん)


(椅子の上で寝ている星ちゃんとみーちゃん)


(おなじく)


(ここはみーちゃんのお気に入りの場所)


(月ちゃんは窓際のバスケットがお気に入り)


(新聞の上で物思いにふける月ちゃん)


(物音に振り向いたところ)


(ストーブの前のみーちゃんと星ちゃん)
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