黄泉の国について、少々今日も、又とんでもない方向になりますが、お読み頂くと幸いです。
本居宣長の「古事記伝」を読むと、イザナギが死んだイザナミに会いに黄泉国に行きます。この黄泉国について詳しく宣長流に解説をしておりますので書いてみます。
「黄泉国」は
“余美能久爾<ヨミノクニ>
と訓べし” とあり、
“死し人の往て居る国なり”
と、また、此の国は
“燭一火<ヒトツビトモシテ>入見之時<イリミマストキ>”
とあるように、真っ暗い所だから「一火を灯してそこら辺りを見る」と周りの様子がよく分かったのです。夜見ノ国です。明りはないのです。夜を支配する月読命<ツキヨミノミコト>の「読」も、また、「黄泉」から出ているのだそうです。また、宣長は
「此の黄泉の国へは身ながら、総て往くのか、それとも、魂だけが往くのか」
と、よく尋ねる人があるのですが、
「この身はなきがらとなりてこの世に留まり、夜見ノ国へは魂だけが往くのだ。」
と書いております。
でも、イザナギが見たイザナミの身に“宇士多加礼<ウジタカレ>”とありますから、イザナミは黄泉の国の入り口「殿騰戸<トノド>」の外まで出迎えに来たのです。と言うことは、イザナミの身は黄泉国の外にあり、魂だけが内にいて、それが、再び、合体して、黄泉の国より出てきたのです。その黄泉国の外にあった身に「うじ」が付いておったのイザナミは知っていて、
“莫視吾<アヲナ ミタマイソ>“(私を決して見ないでください)
といたのです。ということは、二人が再開したそこは黄泉の区域外です。何せ、イザナギは死者ではないのですから、黄泉の国には入れない筈です。
なお、昨日も書いたのですが、「殿騰戸<トノド>」について、戸は、元来、開くもので騰<ア>げるものではありませんが、騰げると言うのは、寝殿造りの蔀戸(しとみど)のような上下に動くような戸だったのかもしれませんね???