応神天皇の御子は全部で二十六柱でした。従ってその妃も高木之入日売のほか十一人の名が古事記には記されております。
その中で「宇遅能和気郎子」の母「矢河枝比売る」は古事記に記られている妃から言えば第5番目の妃なのですが、その御子が
“天津日継<アマツヒツギ>”
に指定されたのです。よほど矢河枝比売が気に入っていたのでしょう。歌を歌ってまでして妃にした女性だったからでしょうか。
それぐらい気に入っていた女性だったのですが、この応神天皇は、それでも又も、次なる女性を妃に迎え入れております。今度は遠い日向国の女性“髪長比売<カミナガヒメ>”をです。この人もまた
“其顔容麗美<カオヨシ>”
とかいてあります。
この史実から推定できることは、この時はまだ倭の国は、天皇の独裁的な中央集権の時代ではなく、地方の豪族たちとの連合体制による政治が行われていたということ如実に表しているのではないでしょうか。各地の首長との結び付きを強固にするための対策として婚姻政策がとられていたのです。ということは、采女の制度が、既に此の時代から政治体制の中に組み込まれていたのです。
その中で「宇遅能和気郎子」の母「矢河枝比売る」は古事記に記られている妃から言えば第5番目の妃なのですが、その御子が
“天津日継<アマツヒツギ>”
に指定されたのです。よほど矢河枝比売が気に入っていたのでしょう。歌を歌ってまでして妃にした女性だったからでしょうか。
それぐらい気に入っていた女性だったのですが、この応神天皇は、それでも又も、次なる女性を妃に迎え入れております。今度は遠い日向国の女性“髪長比売<カミナガヒメ>”をです。この人もまた
“其顔容麗美<カオヨシ>”
とかいてあります。
この史実から推定できることは、この時はまだ倭の国は、天皇の独裁的な中央集権の時代ではなく、地方の豪族たちとの連合体制による政治が行われていたということ如実に表しているのではないでしょうか。各地の首長との結び付きを強固にするための対策として婚姻政策がとられていたのです。ということは、采女の制度が、既に此の時代から政治体制の中に組み込まれていたのです。