「雄略」の時に、吉備の下道臣「前津屋<サキツヤ>」が雄略を軽侮したとして、その兵士三十人を派遣してその一族七十人を誅殺していますが、今度の稚媛を救助するために吉備から駆け付けた上道臣に対する「清寧(白髪皇子)」の制裁は、それまで保持していた上道臣の「山部」を召し上げただけで、一族を撲殺したという記事は見当たりません。そこに「雄略」と「清寧」の政治的戦略の大きな違いがはっきりと分かれています。雄略は「大悪天皇」と呼ばれるだけあって敵になる者は例え兄弟であろうとも、総て、殺害して己の身の安泰を確保していたのですが、そのような父「雄略」の政治的行為が義に反するものだということを深く自覚したのでしょうか、「清寧」は稚媛・星川皇子一派を除いては「誅殺」による制裁は行ってはいません。
このように五世紀末ごろから幾多の経過を経て吉備は、これ以後、次第に中央での政治勢力が衰退して影が薄くなっていくのです。しかし、天皇の朝廷政治を補佐する役人としての影はちらほら程度に見ることはできます。奈良期の和気清麻呂とか吉備真備とか・・・平安以降は昭和の「犬養毅」が出てくるまでは皆無と言ってもいいような状態ですが???
このように五世紀末ごろから幾多の経過を経て吉備は、これ以後、次第に中央での政治勢力が衰退して影が薄くなっていくのです。しかし、天皇の朝廷政治を補佐する役人としての影はちらほら程度に見ることはできます。奈良期の和気清麻呂とか吉備真備とか・・・平安以降は昭和の「犬養毅」が出てくるまでは皆無と言ってもいいような状態ですが???