大和は六世紀初めの安閑の時に、吉備の西隔の地にある後城<シツキ>(現在の井原市)などに初めて屯倉を置きます。それから約50年後の欽明十六年に「白猪屯倉」が、その翌年には「児島屯倉」とが相次いで置かれます。この「白猪屯倉」は「吉備の五郡<イツノコオリ>」に設置されたのですが、この「五郡」は吉備のどの地域にあったのかは不明ですが、学者によりますと、現在の高梁市や真庭市あたりにあったのではないかと推定されているようです??? としますと、この当時の吉備の力は、まだ、大和の勢力が吉備の中央部まで入り込んで支配されるほどに弱まってはいないということを意味するのではないでしょうか。相当な力がまだ残っていたのでしょう
なお、この屯倉(大和王国の直轄地)には「田令<タツカイ>」(屯田首<ミタノツカサ>で都より派遣された大和の役人)がいて税の徴収などの国の政務を行い、今まで執行していた吉備王国の権限がなくなり、その勢力の一層の衰退は否められません。
この時代には、まだ、「天皇」という称号はなく、「大君<オホキミ・スメラミコト>」と呼ばれていたのではないかと言われていますが?????「天皇」の称号は聖徳太子が付けられたのではないかとも・・・・
なお、この屯倉(大和王国の直轄地)には「田令<タツカイ>」(屯田首<ミタノツカサ>で都より派遣された大和の役人)がいて税の徴収などの国の政務を行い、今まで執行していた吉備王国の権限がなくなり、その勢力の一層の衰退は否められません。
この時代には、まだ、「天皇」という称号はなく、「大君<オホキミ・スメラミコト>」と呼ばれていたのではないかと言われていますが?????「天皇」の称号は聖徳太子が付けられたのではないかとも・・・・