日本書紀によると
”舒明の秋七月に蘇我大臣稲目宿根等を備前<キビノミチノサキ>の児島郡に遣して、屯倉を置き、葛城山田直瑞子を以て田令<タズカヒ>と為たまふ。”
と書かれています。この「田令」をに(これを陀豆歌毗<タツカヒ>と云う・・・)
とあり、その後に「韓人<カラヒト>を以て大身狭屯倉の田部と為し、高麗人(コマヒト>を以て小身狭屯倉い田部と為す。」と書かれていますから、田部とはその土地を耕作する人の集団のをいうことが分かります。この児島に派遣した「田令」は「田部」のように耕作者ではなく、その土地を直接に監視する人を言ったのだということが分かります。児島屯倉はもう吉備の管理下ではなく、大和による直接の管理地となったことを意味します。
この田令<タツカヒ>はここに初めて出てくる名前です。吉備の国の一層の弱体を間接的に言い表しています。
”舒明の秋七月に蘇我大臣稲目宿根等を備前<キビノミチノサキ>の児島郡に遣して、屯倉を置き、葛城山田直瑞子を以て田令<タズカヒ>と為たまふ。”
と書かれています。この「田令」をに(これを陀豆歌毗<タツカヒ>と云う・・・)
とあり、その後に「韓人<カラヒト>を以て大身狭屯倉の田部と為し、高麗人(コマヒト>を以て小身狭屯倉い田部と為す。」と書かれていますから、田部とはその土地を耕作する人の集団のをいうことが分かります。この児島に派遣した「田令」は「田部」のように耕作者ではなく、その土地を直接に監視する人を言ったのだということが分かります。児島屯倉はもう吉備の管理下ではなく、大和による直接の管理地となったことを意味します。
この田令<タツカヒ>はここに初めて出てくる名前です。吉備の国の一層の弱体を間接的に言い表しています。