・・・・「雄略時代の田狭」までと考えていたのですが、結局、あれもこれもとと、日本書紀にある「吉備王国」の弱体からその衰滅に到る過程までをも書き綴ってきました。この「日本書紀」にある吉備王国の最後に至った過程を、では、あの「古事記」には一体??と、ページを捲ってみました。驚くなかれ・・・・
清寧以降の歴史、大体、簡単にそ妻や子供たちを挙げるだけで、書紀にあるような諸々の国内外の歴史の記事ははほとんどなく、それまでに記してあるような字数も至って少なく、ここまで読み進めた古事記を見るに、いつも「どうした稗田阿礼」と叫びたい様な気になるのが常ですよね???
例えば、欽明朝に伝わった仏教(金銅仏)伝来という我が国にとっても画期的な一大事実の記事もない、どうしてこのような書きぶりの変化が起きたのでしょうかね。もしかして、「雄略」までを物語った稗田阿礼がここまで至って、突然の「死」が訪れたのではないでしょうか???そうでなかったならば、このような変化は、決して、なかったのではと憶測したいような気分に何時もなるのですが????
でも、この古事記を記した「太安万侶」は、その序に
〝詳細に考証し、いちいち選択して記述いたしました。”
と書いてありますが・・・・
謎が、いつも、秋の深まりとともに一緒に深まるのですが、此れって何でしょうかね???
でも、やっぱり、読書は秋ですね!!!!
清寧以降の歴史、大体、簡単にそ妻や子供たちを挙げるだけで、書紀にあるような諸々の国内外の歴史の記事ははほとんどなく、それまでに記してあるような字数も至って少なく、ここまで読み進めた古事記を見るに、いつも「どうした稗田阿礼」と叫びたい様な気になるのが常ですよね???
例えば、欽明朝に伝わった仏教(金銅仏)伝来という我が国にとっても画期的な一大事実の記事もない、どうしてこのような書きぶりの変化が起きたのでしょうかね。もしかして、「雄略」までを物語った稗田阿礼がここまで至って、突然の「死」が訪れたのではないでしょうか???そうでなかったならば、このような変化は、決して、なかったのではと憶測したいような気分に何時もなるのですが????
でも、この古事記を記した「太安万侶」は、その序に
〝詳細に考証し、いちいち選択して記述いたしました。”
と書いてありますが・・・・
謎が、いつも、秋の深まりとともに一緒に深まるのですが、此れって何でしょうかね???
でも、やっぱり、読書は秋ですね!!!!