大阪市港区は1945年3月13日深夜から14日の未明と6月1日の2回の大空襲で焼き尽くされた。一方で、大阪港は全国各地から兵士、武器弾薬、軍馬、軍事物資などが集結するアジアへの一大出征基地だった。
37年、盧溝橋事件を機に中国侵略戦争が全面化すると、大桟橋(中央突堤)や住友岸壁、第一、第二、第三突堤から軍隊と武器、物資が大陸に向けて連日船出していった。女性らが出兵を見送り、港区は国防婦人会の発祥地ともなった。
住友倉庫の屋上には高射砲が置かれ、部隊が駐屯していた。壁には「咲イタ話ニスパイハ踊ル」などの伝単が貼られていた。赤レンガ倉庫群には機銃掃射の跡も残る。

港区私たちと戦争展実行委員会が見つけた住友倉庫にあった張り紙「咲イタ話ニスパイハ躍ル」

住友岸壁の赤レンガ倉庫群
築港3丁目のあたりは戦時中、陸軍糧秣廠大阪支廠で、豚や鶏を処理し船積みする場所だった。家畜を追悼する「獣魂碑」が建てられ天保山公園に移設されている。

総力戦で家畜も総動員したことを示す「獣魂碑」
天保山は国土地理院三角点で、かつては日本山岳最低峰(4・53m)だった。山頂に明治天皇観艦記念塔が建っている。2005年10月23日に序幕された日中友好の追悼記念「彰往察来」(過去を明らかにし未来を察する)碑が中国大陸の方角を向いて建つ。大阪で強制労働させられた中国人は1千人以上で港湾荷役などの過酷労働を強いられた。そのうち80人あまりが祖国に帰れず大阪で亡くなった。

大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会が建てた日中友好の碑「彰往察来」
築港2丁目には大阪俘虜(捕虜)収容所本所があった。後に空襲を受け、福崎に移転する。終戦時、4256人を収容していた。戦後、爆撃機B‐29が最後の作戦として捕虜たちへの食糧補給を行った。地上にPW(連合軍俘虜収容所)と大書させて目印とし、パラシュートで物資を投下した。
築港1丁目の港住吉神社の大鳥居右横には日露戦争時の艦砲、30㌢砲弾碑。築港南公園には室戸、ジェーン台風の風水害記念碑や金属類回収令で供出されてなくなった軍馬像の台座がある。同1丁目の築港高野山(釈迦院)は戦前、運河の内陸側にあった。宿坊は船出待ちの軍隊の宿舎となり、遺骨の帰還の際には法要が営まれた。

港住吉神社の日露戦争砲弾碑
6月1日の空襲で焼失し現在の場所に再建された。浪曲発祥碑とともに、淡路島鍛屋沖で潜水訓練死した88人の第70号潜水艦殉難者碑がある。

築港高野山にある潜水艦殉難者碑
【取材・記事/坂手崇保(日本機関紙協会大阪府本部事務局長)。写真・記事の転載禁止】