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これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

お手軽な呪文

2015-01-11 20:48:11 | 心をラクに
心というのは、実は物凄いエネルギーと言えるかもしれません。
実際、一瞬も途切れることなく何かに向けられ続けています。

楽しいことがあれば楽しいことに、ツラいことがあればツラいことに向けられます。
頭にくればムカムカし続けますし、失敗すればへこみ続けます。

もしも、これが筋力のように有限なものでしたら少しやっただけでヘトヘトです。

少しムカついたら疲れて、少し喜んだら疲れて。
おかしいですね。

しかし実際は、無尽蔵な巨大エネルギーが無意識のうちに、あちこち無作為に向けられてしまっている…
日常を何となく過ごしているとそれが当たり前なので気がつけませんが、冷静に考えると凄まじいことです。

そして、それがどんなことに向けられたとしても、ブワーッとエネルギーが出ている状態というのはとにかくラクですから、なかなか止められ
ないということになります。

たとえば、何かに頭にきた時、まず感情がきっかけ(火打石)となって根源からエネルギーが流れ始めます。
途中で「あ、これ、そこまででもないか」と頭が気づいたとしても、その流れに流されてしまい、そのまま怒り続けることがあります。
悲しい時や自分を責めている時なども同じパターンが見られたりします。

エネルギーが流れるという状態そのものが、この世の仕組みや自我の姿と重なるため、何となくあがらい難くなってしまうということです。

そもそもこの世では、内から外へ、外から内へのエネルギーの流れというものが私たちを生かしていると言えます。
その流れが滞ると、私たちはエネルギー不足で病んでしまいます。
ですから、引きこもりがちな人が突如爆発するのも、酸欠状態から脱しようとする本能的なものともいえます。

話を戻しますと、一方では、そのエネルギーがあまりに強大すぎるために、あがらえなくなるという面もあります。

小さな子どもは、自分の感情を止められなくなってオロオロすることがあります。
悲しくて泣き始めた子どもが、最初はそれほどでもなかったのに、みるみる止まらなくなって、頭では分かっても自分ではどうすることも
できずに慌てふためくという、あれです。

怒涛のエネルギーが激流となって、それに巻き込まれてどうにもならない状態。
大人になっても、同じようにそこへ陥ってしまいます。

怒りや悲しみの感情にまかせてエネルギーを出しっぱなしにしてしまいますと、悩みや苦しみが生み出されるため、この無尽蔵エネルギーを
何とかしようと昔から色々なことが試行錯誤されてきました。

しかしエネルギーを出すということ自体が悪いことではないのに、そこが悪いことのように捉えてしまい、エネルギーを流すまいとしてしまう
ことがかえって答えを見つけにくくさせてしまったと言えます。

実際に有るものを「無い」と思おうとしても無理な話ですし、それならばエネルギーの方向性を変えてやろうとするのも相当な訓練が必要で、
下手をすると自らを縛ることになり兼ねず、しかもいつでも完璧に行くとは限りません。
心をコントロールしようとしても、エネルギーが強大すぎるのです。

「マイナス思考がよくないからプラス思考にしよう」という発想にしても、理屈で頭を押さえつけるものでしかなく、心が伴っていない
というか、ナチュラルには程遠いものに思えます。
しかも、その思考パターンが習慣づいてしまうと、何でもプラスプラスというのが条件反射化してしまい、思考停止に陥る恐れがあります。

執着が嫌だから、悩みたくないから、自分の頭を他に預けてしまうというのは、単なる自己喪失でしかありません。
囚われを捨てるという目的を履き違えてしまっています。

これは「必然」という言葉を使うケースも同じと言えます。
無思考のまま、自分の以外のもの、天の意思や大いなる流れに丸投げするのは、自己放棄以外の何ものでもありません。

もちろん、そうした大きな流れというものは、実際にあるでしょう。
だからといってそこに身を投じて、流されて、答えが生まれるわけではありません。

車のハンドルから手を離すのは、単なる現実逃避そのものです。
力を抜いてソッと手を添え、自然にやればいいということくらい、説明しなくても誰でも分かることのはずです。

運転初心者の時は、確かにビクビク不安でハンドルを力一杯握ってしまい、力まかせにハンドルを切るもんだから事故にあってばかりだった
かもしれません。
しかし、だからといって手を離せば大丈夫ということにはならないでしょう。

最初から放り投げたりせずに、まずは自我に向き合い、悩むだけ悩み、やるだけやって、これ以上ないというところまで踏ん張ったあとに
ポーンと放り投げる。
そういうことなんではないかと思います。

前置きが長くなってしまいました。

プラスもマイナスも、我々が勝手に規定した概念にすぎません。
「どれが良い」「どれが悪い」という条件反射が物事をややこしくしています。
社会通念や個人の固定観念、そういうものがスイッチとなって火がつきエネルギーが流れ出すわけです。

子どもの時にはまだそういう知識や観念が蓄積されていないため、イキイキと素直に一喜一憂して過ごせたわけです。

泣いたと思ったらもう笑っている。
ずるずると後を引かない。
まさに「今」に生きていました。

ですから、我々もニュートラルにしてしまえばいいのです。
そのための言霊はたくさんあります。

「ありがとうございます」もその一つです。

これが使える時には、これが一番です。
でも、怒ったり悲しんだりしてる真っ最中には、なかなかそれを心に思うことはできません。
そうすればいいと頭で分かっても、素直な状態でない時は、素直に使えないものです。

人はネガティヴ思考に引っ張られやすいものですし、おまけに、そのネガティヴ思考は自己防衛力の強いパワフルなエネルギーでもあります。
消そうとしたり止めようとすると、生き残ろうとして余計に強くなります。

頭に来てる時や悲しんでる時、ありがとうだなんて空々しすぎて嘘でも言えない、言いたくない。
そんな時はどうすればいいか。

心がエネルギーを流している時に、心にもないありがとうを言うのは、現実にフタをするようなものです。
方向が正反対になってしまう。
だから、ものすごい抵抗を感じるわけです。

ですからそういう時は、まずエネルギーが流れる方向と目線を合わせることが大前提となります。

これは受け売りですが、そんな時に使う言葉としては「これでいいのだ」がとても効果的です。

エネルギーの流れること自体は全く否定しない。でも、そこに新たなガソリンを注入することもない。

これはもちろん、怒ったり悲しんだりしていることそのものに使うのではなく(実際はそれもアリですが)、まずはその怒ったり悲しんだりの
原因となった出来事に対して使います。

感情エネルギーは頭から押さえつけられようとすると俄然やる気マンマンになって抵抗しますが、いきなり全部スルーされてしまうと途端に
霧散してしまいます。
実は極めて脆弱な存在なのです。
というか、そもそも実体など無いのです。

怒りや悲しみなど、物すごい力で自ら勝手に爆走しているように見えていたものは、それだけ強大なエネルギーが絶え間なく注入され続ける
ことで、原型をとどめていたにすぎないわけです。

それ自体が、巨大エネルギーだったということではなかったのです。

それは、一瞬でも気が抜ければ、あっという間に形が崩れてしまう風船玉のようなものと言うこともできます。
それが壊れないためには、いったいどれだけ膨大なエネルギーがそのバックにあるのか。
まさに底なしのエネルギーです。

さて、そんな「これでいいのだ」というのは一つの方便に過ぎません。
何でもかんでも、考えなしに全肯定するということではなく、あくまで心の暴走を止めるためのものに過ぎません。

やはり、失敗したことは真摯に受け止め、反省すべきことは反省することです。
そうやって次へと繋げていくわけです。
ダメだったことをチャランポランにポイと捨てていいということではありません。

ただ大切なのはそこまで。
それ以上のことは不要ということです。
それ以上のことは、逆に積極的にポイと捨てていくこと。
反省したら、ポイです。

反省、反省、反省…とやりすぎると感情エネルギーが発動し、後悔が生じてきます。
ポイ捨てができず、悲しみや怒りへとエネルギーが流れそうになった時は、再びこの言葉の出番というわけです。

自己嫌悪や後悔の渦に巻き込まれないための方便と思って、気軽に使うのがいいのでしょう。

それにしても子供の頃は、悪ノリの過ぎるオジサンだと思って笑いながら観てましたが、バカボンのパパの言葉って、深かったんですね(笑)