いきなりですが、「天地に感謝しましょう」なんて言われたらどのように思われるでしょうか。
なんとも空々しいというか、現実離れしたお花畑を想像してしまい、思わず距離を置いてしまうのではないでしょうか。
実際のところ、私たちは天地に生かされている実感を全く持っていませんので、なかなかピンとこないのが当然の反応ではないかと思います。
実感もないのに平気でそれを言えたとしたら、それは綺麗事にしかなりません。
以前にも書きましたが、生きとし生けるもの、あらゆる生物は、天地とのエネルギーの交流で生かされていると言えます。
この世は、すみずみまでエネルギーに満ち満ちている。
それをご神気といえば、より現実味を帯びるかもしれませんし、あるいはまた氣と表現した方が何となく分かるという人もいるかもしれません。
この場合の「氣」というのは、ご神氣の「氣」ということになりますので要するに同じものを指すことになります。
そもそもこの世では、魂というものが肉体に入り込んで天地との交流が起こっています。
魂が抜けると天地との交流ができなくなるので肉体は朽ちてしまいます。
私たちは、天地に生かされており、また魂に生かされているわけです。
まさに天地に感謝ですし、魂にも感謝ということになります。
少し脱線しますが、今こうしてアレコレ考えている自分というのは頭や意識と表現されるものです。魂ではありません。
もちろん魂も自分そのものですが、魂は自我とは異なる次元で私たちを俯瞰しています。
それを優しい表現にするならば、私たちを見守っていると言うこともできます。
そんな魂が私たちの胸の内にあります。
自分というものを大好きという人はなかなか居ませんが、それは自我を自分だと思っているからではないかと思います。
自我とは、感情に直結するものでもありますので、身勝手でワガママなイメージを持ってしまいます。
そんなワガママを大好きと平気で言えるなんてマジかいな、と思うのが良識人ならば健全と言えます。
ただ、自我ではなく魂というものが自分であると考えたならば、話が変わってくるのではないでしょうか。
私たちを生かしてくれる魂。
文句も言わずに見守ってくれている魂。
あぁ、なんて有り難い。嬉しい。もったいない。
もしもそのように自分を受け入れられたならば、私たちは他人のことも受け入れられるようになるでしょう。
他人もまた自我ではなく魂として見るということです。
「自分を愛せない人は他人も愛せない」というのは、そういう意味だと私は思っています。
愛するというのは、受け入れることだと考えています。
天地は愛そのものですが、それというのは外へと注ぐ愛情ではなく、すべてを受け入れる寛容さだと思っています。
何をしようとも温かく包みこんでいる状態。
あらゆるすべてを認めて見守っている状態。
期待も失望もせず、オールOKの大いなる心であるということです。
さて話を戻しますと、感謝の思いが起きにくいのは生かされている実感がないのが理由の一つではないかと書きました。
魂と意識(ないし心)がごちゃ混ぜになると、魂も意識もすべて自分のものだと思いこんでしまいます。
そして、自分は自分の力で生きている、となっていきます
例えば、私たちは親の加護があって生かされてきましたが、それを親の義務だから当たり前だと思い込んでしまうと、自分が生かされたという
事実はどこかへ消し飛んでしまいます。
そうして自分は自分の力で生きていると勘違いしようものなら、たちまち自由や権利を叫びだし、ますます勘違いに拍車がかかるようになって
しまうということです。
たとえどのような形であろうとも、今こうして存在しているということは私たちは親、ないしそれに代わる誰かに生かしてもらったという
ことになります。
そして親に生かしてもらったという事実が見えなくなると、それ以外の存在、すなわち目に見えない事実にはもっと気がつきにくくなります。
自立という言葉を履き違えて「自分で生きている」のが格好いいと思ってしまうと、当たり前の事実にも素直になれず「別に育ててくれと
頼んだ覚えはない」などとバカげた現実逃避まで起きてしまいます。
まだそれが親子関係であれば幼稚な憎まれ口で済むのですが、対象が少しでも大きくなると、途端に本気の思い込みになってしまうものです。
「別に国に助けてもらってなどいない」
「国など無くても生きていける」
「この国など自分に何の関係もない」
といった具合にです。
「国」を「親」という言葉に置き換えれば、すぐにその幼稚さが分かるはずです。
これは決して言葉遊びではなく、とても大事な話です。
でも今度はその「国」という言葉を、私たちに馴染みのない物事に置き換えて想像してみるとどうでしょう。
「別に◯◯に助けてもらっていない」
「◯◯など無くても生きていける」
「◯◯など自分に何の関係もない」
自分とは関係ないような物事、自分とは関係ない人々などに対して、私たちは当たり前にそのように思ってしまっているのではないでしょうか。
そして、そうした自分を取り巻く存在の最たるものが「天地」であるわけです。
私たちは、自分の身近なものであれば実感を伴うものでも、遠くなればなるほど実感が薄れてしまいます。
そうして自分には関係ないものとなり、ついにはそれらの存在そのものに気づかなくなってしまうということです。
これを正常な状態に戻すには、その逆ルートを辿ればいいということになります。
いきなり三段跳びでやろうとすると無理が生じてしまいます。
徐々に段階を追ってということが大事です。
つまり、少しずつ小刻みにスケールを変えていくということです。
自分に近いところから徐々に広げていく。
間違いなく自分に関係のあるものから順に、それが無いと自分は生きられないということを実感をともなって理解していくということです。
いきなり天地に感謝しようなどと言われても、一つ一つがバラバラだと、頭で分かっても思いがついていかないことになります。
実は、教育勅語こそがそうしたことを順を追って分かりやすく伝えていました。
両親への感謝。
兄弟・姉妹への感謝。
妻・夫への感謝。
友人への感謝。
会社や社会への感謝。
自分以外のものへの感謝。
国への隷属を洗脳するものなどという言いがかりがありますが全くトンデモありません。
そんなガセネタを知的だと感じる幻想こそが洗脳であって、それこそ国だけでなく社会も会社も、さらには両親への感謝までもがカッコ悪いもの
となってしまいます。
それこそが戦後日本の姿そのものでないかと思うばかりです。
すべて、ごく当たり前のこと。
教育勅語を初めて読んだ人は、あまりに当たり前すぎる内容に驚かれることでしよう。
でも戦後は、そういう当たり前のことを教えられずに来てしまったのです。
親に感謝するという当たり前のことを恥ずかしがりカッコ悪いと思うようになり、家族や友人、会社や社会、国のことを直視できなくなってしまいました。
さらに「自分は自分の力で生きている」という幼稚な背伸びは、ついに教育現場において「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という絶望的
な質問を生むに至りました。
誰もこれに答えられなかったということですが、それも仕方のない話だと思います。
何故ならば、先生だけでなく社会全体が、当たり前のことを当たり前に自覚してこなかったからです。
私たちは、私たち一人一人の力ではなく、両親や愛する人たち、さらにそれ以外の多くの人たちの存在によって生かしてもらっている。
その当たり前のことを理解していれば、自分の命と同じように他の人の命が大事なことくらい、子どもにだって分かります。
ましてや、この命、この魂というものが私たちの所有物ではないという基本中の基本の話があれば説明すらも必要のないことでしょう。
戦前の方たちは、そうしたことを素直に受け入れていました。
幼稚なカッコつけなどせず、大人の思慮でもって受け入れていました。
だからこそ、今の我々と同じように我が身を惜しむ気持ちを持ちながらも、それを上まわる感謝の心に突き動かされて過ごしていたわけです。
生かされているという事実は、個人主義や西洋的思想においては難解なものかもしれません。
そのためそれらを両立させるために、中間をすっ飛ばして、神によって生かされているという教義を作り出しました。
いきなり最頂点だけを持ってきたわけですから、そこには実感も何もない。
だから信仰心という強い力でもって必死にそれを繋ぎ止めようとしたのではないかと思います。
我利我利と生きないための命綱が教義であり信仰心であった彼らからすれば、それらの無い日本とは我利我利した低俗な国に違いないと考えた
のも仕方のないことだったと言えます。
ありがたいことに私たち日本人は、教義や信仰など無くとも、生かされているということを実感をもって理解することができます。
両親に始まり、家族、親族、友人。
学校、会社といった組織、そして社会。
さらには人間社会を離れ、山や森、海や大地、風、雷、月や太陽、といった自然。
自分のまわりのあらゆる存在に対して、生かしてもらっていることを実感する。
だから、感謝する。
だから、お祀りする。
そうして私たちのご先祖様は、一族の先祖を祀ったり、社会に貢献した偉人を祀ったり、天地自然を祀ったりしてきました。
それは西洋的な神ではなく、生かされていることへの感謝の現れであり、貴さの象徴だったわけです。
神だ何だと言うと距離を感じてしまいますが、純粋な感謝の思いだと考えれば、とても身近な感覚になるのではないかと思います。
外国の人たちにはそのへんが理解しにくいところだったようですが、最近では外国の人たちも感性でもって核心を掴む方が増えてきたように
感じます。
ありがたいことに我々日本人は、戦後教育の逆風にさらされながらも、天地自然に対して畏れと感謝の心を今でもしっかりと持ち続けています。
成果主義や個人主義という自分本位な考え方が強まっていても、無意識のうちに日本人の感性は受け継がれています。
風土や環境、伝統、風習によってその感性が存続されたということです。
まさにご先祖の遺産の御蔭であります。
これまではカッコつけの恥ずかしさが心の邪魔をしていましたが、3・11を境にして、多くの人たちが自分の心に素直になり、魂が発露してきたように感じます。
これからは、もう恥ずかしがることなく、色々なことへ感謝の心が向けられます。
私たちは、もとより天地自然と交流して生きています。生かされています。
そして、そんな私たち人間も天地自然の一つなのです。
なんとも空々しいというか、現実離れしたお花畑を想像してしまい、思わず距離を置いてしまうのではないでしょうか。
実際のところ、私たちは天地に生かされている実感を全く持っていませんので、なかなかピンとこないのが当然の反応ではないかと思います。
実感もないのに平気でそれを言えたとしたら、それは綺麗事にしかなりません。
以前にも書きましたが、生きとし生けるもの、あらゆる生物は、天地とのエネルギーの交流で生かされていると言えます。
この世は、すみずみまでエネルギーに満ち満ちている。
それをご神気といえば、より現実味を帯びるかもしれませんし、あるいはまた氣と表現した方が何となく分かるという人もいるかもしれません。
この場合の「氣」というのは、ご神氣の「氣」ということになりますので要するに同じものを指すことになります。
そもそもこの世では、魂というものが肉体に入り込んで天地との交流が起こっています。
魂が抜けると天地との交流ができなくなるので肉体は朽ちてしまいます。
私たちは、天地に生かされており、また魂に生かされているわけです。
まさに天地に感謝ですし、魂にも感謝ということになります。
少し脱線しますが、今こうしてアレコレ考えている自分というのは頭や意識と表現されるものです。魂ではありません。
もちろん魂も自分そのものですが、魂は自我とは異なる次元で私たちを俯瞰しています。
それを優しい表現にするならば、私たちを見守っていると言うこともできます。
そんな魂が私たちの胸の内にあります。
自分というものを大好きという人はなかなか居ませんが、それは自我を自分だと思っているからではないかと思います。
自我とは、感情に直結するものでもありますので、身勝手でワガママなイメージを持ってしまいます。
そんなワガママを大好きと平気で言えるなんてマジかいな、と思うのが良識人ならば健全と言えます。
ただ、自我ではなく魂というものが自分であると考えたならば、話が変わってくるのではないでしょうか。
私たちを生かしてくれる魂。
文句も言わずに見守ってくれている魂。
あぁ、なんて有り難い。嬉しい。もったいない。
もしもそのように自分を受け入れられたならば、私たちは他人のことも受け入れられるようになるでしょう。
他人もまた自我ではなく魂として見るということです。
「自分を愛せない人は他人も愛せない」というのは、そういう意味だと私は思っています。
愛するというのは、受け入れることだと考えています。
天地は愛そのものですが、それというのは外へと注ぐ愛情ではなく、すべてを受け入れる寛容さだと思っています。
何をしようとも温かく包みこんでいる状態。
あらゆるすべてを認めて見守っている状態。
期待も失望もせず、オールOKの大いなる心であるということです。
さて話を戻しますと、感謝の思いが起きにくいのは生かされている実感がないのが理由の一つではないかと書きました。
魂と意識(ないし心)がごちゃ混ぜになると、魂も意識もすべて自分のものだと思いこんでしまいます。
そして、自分は自分の力で生きている、となっていきます
例えば、私たちは親の加護があって生かされてきましたが、それを親の義務だから当たり前だと思い込んでしまうと、自分が生かされたという
事実はどこかへ消し飛んでしまいます。
そうして自分は自分の力で生きていると勘違いしようものなら、たちまち自由や権利を叫びだし、ますます勘違いに拍車がかかるようになって
しまうということです。
たとえどのような形であろうとも、今こうして存在しているということは私たちは親、ないしそれに代わる誰かに生かしてもらったという
ことになります。
そして親に生かしてもらったという事実が見えなくなると、それ以外の存在、すなわち目に見えない事実にはもっと気がつきにくくなります。
自立という言葉を履き違えて「自分で生きている」のが格好いいと思ってしまうと、当たり前の事実にも素直になれず「別に育ててくれと
頼んだ覚えはない」などとバカげた現実逃避まで起きてしまいます。
まだそれが親子関係であれば幼稚な憎まれ口で済むのですが、対象が少しでも大きくなると、途端に本気の思い込みになってしまうものです。
「別に国に助けてもらってなどいない」
「国など無くても生きていける」
「この国など自分に何の関係もない」
といった具合にです。
「国」を「親」という言葉に置き換えれば、すぐにその幼稚さが分かるはずです。
これは決して言葉遊びではなく、とても大事な話です。
でも今度はその「国」という言葉を、私たちに馴染みのない物事に置き換えて想像してみるとどうでしょう。
「別に◯◯に助けてもらっていない」
「◯◯など無くても生きていける」
「◯◯など自分に何の関係もない」
自分とは関係ないような物事、自分とは関係ない人々などに対して、私たちは当たり前にそのように思ってしまっているのではないでしょうか。
そして、そうした自分を取り巻く存在の最たるものが「天地」であるわけです。
私たちは、自分の身近なものであれば実感を伴うものでも、遠くなればなるほど実感が薄れてしまいます。
そうして自分には関係ないものとなり、ついにはそれらの存在そのものに気づかなくなってしまうということです。
これを正常な状態に戻すには、その逆ルートを辿ればいいということになります。
いきなり三段跳びでやろうとすると無理が生じてしまいます。
徐々に段階を追ってということが大事です。
つまり、少しずつ小刻みにスケールを変えていくということです。
自分に近いところから徐々に広げていく。
間違いなく自分に関係のあるものから順に、それが無いと自分は生きられないということを実感をともなって理解していくということです。
いきなり天地に感謝しようなどと言われても、一つ一つがバラバラだと、頭で分かっても思いがついていかないことになります。
実は、教育勅語こそがそうしたことを順を追って分かりやすく伝えていました。
両親への感謝。
兄弟・姉妹への感謝。
妻・夫への感謝。
友人への感謝。
会社や社会への感謝。
自分以外のものへの感謝。
国への隷属を洗脳するものなどという言いがかりがありますが全くトンデモありません。
そんなガセネタを知的だと感じる幻想こそが洗脳であって、それこそ国だけでなく社会も会社も、さらには両親への感謝までもがカッコ悪いもの
となってしまいます。
それこそが戦後日本の姿そのものでないかと思うばかりです。
すべて、ごく当たり前のこと。
教育勅語を初めて読んだ人は、あまりに当たり前すぎる内容に驚かれることでしよう。
でも戦後は、そういう当たり前のことを教えられずに来てしまったのです。
親に感謝するという当たり前のことを恥ずかしがりカッコ悪いと思うようになり、家族や友人、会社や社会、国のことを直視できなくなってしまいました。
さらに「自分は自分の力で生きている」という幼稚な背伸びは、ついに教育現場において「なぜ人を殺してはいけないのですか?」という絶望的
な質問を生むに至りました。
誰もこれに答えられなかったということですが、それも仕方のない話だと思います。
何故ならば、先生だけでなく社会全体が、当たり前のことを当たり前に自覚してこなかったからです。
私たちは、私たち一人一人の力ではなく、両親や愛する人たち、さらにそれ以外の多くの人たちの存在によって生かしてもらっている。
その当たり前のことを理解していれば、自分の命と同じように他の人の命が大事なことくらい、子どもにだって分かります。
ましてや、この命、この魂というものが私たちの所有物ではないという基本中の基本の話があれば説明すらも必要のないことでしょう。
戦前の方たちは、そうしたことを素直に受け入れていました。
幼稚なカッコつけなどせず、大人の思慮でもって受け入れていました。
だからこそ、今の我々と同じように我が身を惜しむ気持ちを持ちながらも、それを上まわる感謝の心に突き動かされて過ごしていたわけです。
生かされているという事実は、個人主義や西洋的思想においては難解なものかもしれません。
そのためそれらを両立させるために、中間をすっ飛ばして、神によって生かされているという教義を作り出しました。
いきなり最頂点だけを持ってきたわけですから、そこには実感も何もない。
だから信仰心という強い力でもって必死にそれを繋ぎ止めようとしたのではないかと思います。
我利我利と生きないための命綱が教義であり信仰心であった彼らからすれば、それらの無い日本とは我利我利した低俗な国に違いないと考えた
のも仕方のないことだったと言えます。
ありがたいことに私たち日本人は、教義や信仰など無くとも、生かされているということを実感をもって理解することができます。
両親に始まり、家族、親族、友人。
学校、会社といった組織、そして社会。
さらには人間社会を離れ、山や森、海や大地、風、雷、月や太陽、といった自然。
自分のまわりのあらゆる存在に対して、生かしてもらっていることを実感する。
だから、感謝する。
だから、お祀りする。
そうして私たちのご先祖様は、一族の先祖を祀ったり、社会に貢献した偉人を祀ったり、天地自然を祀ったりしてきました。
それは西洋的な神ではなく、生かされていることへの感謝の現れであり、貴さの象徴だったわけです。
神だ何だと言うと距離を感じてしまいますが、純粋な感謝の思いだと考えれば、とても身近な感覚になるのではないかと思います。
外国の人たちにはそのへんが理解しにくいところだったようですが、最近では外国の人たちも感性でもって核心を掴む方が増えてきたように
感じます。
ありがたいことに我々日本人は、戦後教育の逆風にさらされながらも、天地自然に対して畏れと感謝の心を今でもしっかりと持ち続けています。
成果主義や個人主義という自分本位な考え方が強まっていても、無意識のうちに日本人の感性は受け継がれています。
風土や環境、伝統、風習によってその感性が存続されたということです。
まさにご先祖の遺産の御蔭であります。
これまではカッコつけの恥ずかしさが心の邪魔をしていましたが、3・11を境にして、多くの人たちが自分の心に素直になり、魂が発露してきたように感じます。
これからは、もう恥ずかしがることなく、色々なことへ感謝の心が向けられます。
私たちは、もとより天地自然と交流して生きています。生かされています。
そして、そんな私たち人間も天地自然の一つなのです。