「あの頃は楽しかったなぁ」「またあの頃に戻れたら」と思うことがあります。
特に、子供の頃を思い出すとそのような気持ちが強くなるものです。
小学生の頃、中学生の頃、そしてもう大人のつもりでいた高校生や大学生の頃
でさえそうです。
色々なことがあったけど、その時は何も考えず毎日を楽しんでいました。
いま思い返しても、ワクワクというか、ふわふわというか、ポカポカした温かい
感覚に包まれます。
もしかしたら今この瞬間のことも、死んだあとに振り返ってみると、それと同じ
ような感覚になるのかもしれませんが(笑)
それにしても、なんで子どもの頃はそんなに楽しかったのでしょう。
まず頭に浮かぶことといえば、「悩みも不安もなかった」「まわりのことは気に
していなかった」「知らないがゆえに幸せだった」といったところでしょうか。
たしかに子どもの頃は、明日どころか、わずか数分後のことすらも考えず、いま
楽しめることがないかと四六時中探し回っていました。
その結果「またこの子はなんでそんなことするの!」「あと少しなんだからジッ
としてなさい!」と怒られたり、あるいは翌日の宿題のことなどスッカラカンで
その日になって怒られたりしたものです。
実際、楽しいことを探さずにはいられなかったですし、大人から見ればショーモ
ナイことでもそれを何とか楽しくしようと必死でした。
ある意味、生き方としては核心をついていると言えます。
そんな子ども時代に想いを抱くのは、あの無垢な心でワクワクを求めている瞬間の
高揚感を肌が覚えているからなのかもしれませんし、あるいはそれが今となっては
叶わぬものになったという切なさからなのかもしれません。
人は、成長とともに色々な失敗や成功を重ね、同時に自分以外のまわりへと視野が
広がり、家族や友達そして社会へと、周囲との関係性を強く意識するようになって
いきます。
そうした知識や経験をもとに、明日や明後日を安全に過ごせるように自分をコント
ロールするようになります。
しかし、それは大なり小なりストレスや悩みを生むことにもなりました。
子どもの頃は、大人から見れば簡単に予測できるような失敗やケガをしていました。
その代わりストレスや悩みとはほとんど無縁でした。
それが、ケガや失敗を避けようとするうちに様々な雑念や執着に囚われやすくなっ
ていきました。
生きやすさを求めた結果、心は様々なストレスに苦しむようになったわけです。
果たして、子どもの頃のキラキラは、過去の夢なのでしょうか。
手放しでの無防備な生き方は、保護者が居たからこそ出来たことなのでしょうか。
そんなことはありません。
不安やこだわりから離れれば、いつでもよみがえります。
不安やこだわりは全て自分の外にあるものです。
将来や過去へ心を向けたり、他人や理想に心を向けることで生じます。
どれも今との比較によって生れるものです。
つまり、心が「今」の外にあるわけです。
思えば、子どもの頃はいつも瞬間瞬間に心が向いていました。
「今」しかありませんでした。
大人が何を言おうと耳に届きませんでしたし、「今」のあとのことなどスッカラ
カンでした。
空間的にも時間的にも、「今」しかありませんでした。
さて、そうなるとさらなる疑問が生まれます。
「今」しか見えない子どもが良くて、「今」以外見えてしまう大人はダメということ
なのかと。
答えはノーです。
まわりや将来へ心を通すことは、やはり大事なことだと思います。
ただ、それに執着しすぎるからおかしくなるのです。
まわりに対しても、将来に向けても、最初に心をスッと通すだけで十分。
あとはそれを完全に手離し、心を「今」に100%向けるのです。
その時こそ、子どもの頃の自分をお手本にすればいいのです。
まわりや将来のことがチラチラと頭に浮かんでしまうと今が散漫になってしまい
ます。
とにかく大事なのは、一度スッと心を向けたあとはそれを忘れるという切り替え
です。
忘れてしまって大丈夫。
手放しの無防備で大丈夫なのです。
心配しなくても保護者がいます。
自分の魂がそうですし、天地がそうです。
疑うまでもありません。
生きているというのはそういうことなのですから。
保護者なしではそもそも存在できません(笑)
そのように一つ一つのことに心を100%向けて過ごしていると、文字どおり、
一喜一憂の日々になるでしょう。
先々のことやまわりのことなど、その瞬間には無縁のことだからです。
はたから見れば、それはまるで子どものように映ることでしょう。
大人げなく、みっともないと感じるかもしれません。
でも、それこそが、夢にまで描いた子どもの頃のあのキラキラなのです。
宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、そのものズバリが書かれてます。
日照リノ時ハ涙ヲ流シ
寒サノ夏ハオロオロ歩キ
ミンナニ木偶ノ坊ト呼バレ
ホメラレモセズ
苦ニモサレズ
ソウイウ者ニ
私ハナリタイ
・・・これ以上ないほどに世渡り下手な生き方です。
いちいち大袈裟に反応し、そしてまわりからは陰口を叩かれる。
まさに、世の中を行く(生く)には難しい姿です。
でも、その一方で心は常に「今」だけに向いているので、ストレスとは無縁です。
生きることに苦しみが伴わないわけですから、それは生きやすいということに
なります。
どこに幸せを見出だすかは人それぞれです。
ただ、その気になればいつでもあの頃に戻れると思うだけでも、なんだか少し
ポカポカしてきませんか?
特に、子供の頃を思い出すとそのような気持ちが強くなるものです。
小学生の頃、中学生の頃、そしてもう大人のつもりでいた高校生や大学生の頃
でさえそうです。
色々なことがあったけど、その時は何も考えず毎日を楽しんでいました。
いま思い返しても、ワクワクというか、ふわふわというか、ポカポカした温かい
感覚に包まれます。
もしかしたら今この瞬間のことも、死んだあとに振り返ってみると、それと同じ
ような感覚になるのかもしれませんが(笑)
それにしても、なんで子どもの頃はそんなに楽しかったのでしょう。
まず頭に浮かぶことといえば、「悩みも不安もなかった」「まわりのことは気に
していなかった」「知らないがゆえに幸せだった」といったところでしょうか。
たしかに子どもの頃は、明日どころか、わずか数分後のことすらも考えず、いま
楽しめることがないかと四六時中探し回っていました。
その結果「またこの子はなんでそんなことするの!」「あと少しなんだからジッ
としてなさい!」と怒られたり、あるいは翌日の宿題のことなどスッカラカンで
その日になって怒られたりしたものです。
実際、楽しいことを探さずにはいられなかったですし、大人から見ればショーモ
ナイことでもそれを何とか楽しくしようと必死でした。
ある意味、生き方としては核心をついていると言えます。
そんな子ども時代に想いを抱くのは、あの無垢な心でワクワクを求めている瞬間の
高揚感を肌が覚えているからなのかもしれませんし、あるいはそれが今となっては
叶わぬものになったという切なさからなのかもしれません。
人は、成長とともに色々な失敗や成功を重ね、同時に自分以外のまわりへと視野が
広がり、家族や友達そして社会へと、周囲との関係性を強く意識するようになって
いきます。
そうした知識や経験をもとに、明日や明後日を安全に過ごせるように自分をコント
ロールするようになります。
しかし、それは大なり小なりストレスや悩みを生むことにもなりました。
子どもの頃は、大人から見れば簡単に予測できるような失敗やケガをしていました。
その代わりストレスや悩みとはほとんど無縁でした。
それが、ケガや失敗を避けようとするうちに様々な雑念や執着に囚われやすくなっ
ていきました。
生きやすさを求めた結果、心は様々なストレスに苦しむようになったわけです。
果たして、子どもの頃のキラキラは、過去の夢なのでしょうか。
手放しでの無防備な生き方は、保護者が居たからこそ出来たことなのでしょうか。
そんなことはありません。
不安やこだわりから離れれば、いつでもよみがえります。
不安やこだわりは全て自分の外にあるものです。
将来や過去へ心を向けたり、他人や理想に心を向けることで生じます。
どれも今との比較によって生れるものです。
つまり、心が「今」の外にあるわけです。
思えば、子どもの頃はいつも瞬間瞬間に心が向いていました。
「今」しかありませんでした。
大人が何を言おうと耳に届きませんでしたし、「今」のあとのことなどスッカラ
カンでした。
空間的にも時間的にも、「今」しかありませんでした。
さて、そうなるとさらなる疑問が生まれます。
「今」しか見えない子どもが良くて、「今」以外見えてしまう大人はダメということ
なのかと。
答えはノーです。
まわりや将来へ心を通すことは、やはり大事なことだと思います。
ただ、それに執着しすぎるからおかしくなるのです。
まわりに対しても、将来に向けても、最初に心をスッと通すだけで十分。
あとはそれを完全に手離し、心を「今」に100%向けるのです。
その時こそ、子どもの頃の自分をお手本にすればいいのです。
まわりや将来のことがチラチラと頭に浮かんでしまうと今が散漫になってしまい
ます。
とにかく大事なのは、一度スッと心を向けたあとはそれを忘れるという切り替え
です。
忘れてしまって大丈夫。
手放しの無防備で大丈夫なのです。
心配しなくても保護者がいます。
自分の魂がそうですし、天地がそうです。
疑うまでもありません。
生きているというのはそういうことなのですから。
保護者なしではそもそも存在できません(笑)
そのように一つ一つのことに心を100%向けて過ごしていると、文字どおり、
一喜一憂の日々になるでしょう。
先々のことやまわりのことなど、その瞬間には無縁のことだからです。
はたから見れば、それはまるで子どものように映ることでしょう。
大人げなく、みっともないと感じるかもしれません。
でも、それこそが、夢にまで描いた子どもの頃のあのキラキラなのです。
宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』に、そのものズバリが書かれてます。
日照リノ時ハ涙ヲ流シ
寒サノ夏ハオロオロ歩キ
ミンナニ木偶ノ坊ト呼バレ
ホメラレモセズ
苦ニモサレズ
ソウイウ者ニ
私ハナリタイ
・・・これ以上ないほどに世渡り下手な生き方です。
いちいち大袈裟に反応し、そしてまわりからは陰口を叩かれる。
まさに、世の中を行く(生く)には難しい姿です。
でも、その一方で心は常に「今」だけに向いているので、ストレスとは無縁です。
生きることに苦しみが伴わないわけですから、それは生きやすいということに
なります。
どこに幸せを見出だすかは人それぞれです。
ただ、その気になればいつでもあの頃に戻れると思うだけでも、なんだか少し
ポカポカしてきませんか?