若い頃というのは、怖いもの知らずの、はじけるような元気に溢れています。
それが、失敗や成功といった大きな波を経験するにつれて、自信に満ちて風格を備えて
いきます。
そして、年老いていくにつれ、円みを帯びた優しい雰囲気へと変わっていきます。
「自信」というのは、文字通り、自らを信じるということです。
これは「自分は『できる』と信じている状態」と取られがちですが、それですと「結果」が
セットになってしまうので、少し違うような気がします。
それよりも、そのまま「自分を信じきっている状態」「今の自分に全てを託している状態」
「全てを委ねている状態」といった方が、しっくりきます。
全てを託しているというのは、過去や未来もなく、今が100%の状態です。
そうなると、先の結果のことなど頭にないわけですから、どのような展開も全てOKに
なります。
一方、「自分は『できる』と信じる」というのは「慢心」や「過信」に繋がりやすくなります。
つまり、実際の自分を冷静に客観視できず、気持ちが先走って身の丈以上の幻想を抱いて
しまっている状態です。
それは文字通り「信じ過ぎている」ということになりますので、焦点が今からズレて
しまっています。
自己暗示の方法というのは、うまくいけばハマりますが、副作用も大きいと思います。
「自信」は、結果として現われる「状態」「心境」です。
ですから、それが現われる前提が刻まれていないのに「自信を持とう」というセリフを
発するのは、中身のないシャボン玉です。
そういう時は「今の自分を受け入れよう」の方が適切だと思います。
つまり、「自信」というのは、そこに我執が入るか否かで、慢心や過信と紙一重
ということです。
自信が伴っていますと、見た目の様子がいかにも堂々としているものです。
「堂々としているから強そうだ」「堂々としているから何かやってくれそうだ」と、
その大きさに信頼感や安心感を抱くわけです。
ただ、この「堂々として見える」というのがまたクセモノです。
ジャンルを問わず、職人であっても、武道であっても、あるいは会社の仕事であっても、
その道を究めていく過程において、例えば「自分はここまで成長した」「ここまで掴んだ」
という思いが、無意識のうちに振る舞いや佇まいに出ることがありますが、禅ではこれを
「悟臭」と呼ぶのだそうです。
まさに、鼻持ちならないといったところでしょう。
本人としてはそれを、堂々とした雰囲気だと履き違えてしまうかもしれません。
でも、それは慢心であり、我執の現われです。
ドンナモンダイという我執の匂いたつような様子を、悟臭と表現したわけです。
溌剌とした明るいエネルギーが出て大きく見える姿と、大きく見せようとして胸を張って
いる姿は、似て非なるものです。
自己顕示欲は他人の目を意識することで生まれ、自尊心は自分という存在への執着に
よって生れます。
そうしたものが無かったとしても、他人との「比較」や、過去の自分との「比較」によって
少しでも優越感が生じてしまうと、悟臭が漂い始めてしまうかもしれません。
結局は、心が目の前の「今」ではなく、あちこち色々なところへ向いてしまうことによって
囚われが一人歩きしだしてしまうのです。
「能力がある、運動ができる・・・それが何なの?」とスルーさせて、そんなことよりも
「今」を無邪気に楽しみきる。そこに集中する。
すると、途端に、鼻持ちならない雰囲気は消えてなくなります。
代わりに、肩の力の抜けた好々爺のような姿が現われます。
それは、威風堂々とした姿には程遠いものですが、そばにいるだけで何だか心が休まる
ほっこりした空気が漂います。
これまた好みの問題ですから、どっちがいいというわけではありません。
でも、遅かれ早かれ、人は体力が落ちてくるとともに、自分一人だけで何でもできると
いう慢心が薄れ、肩の力が抜けて円みを帯びていくものです。
老いるというのは、そういうことだと思います。
なかには若いころの堂々とした姿にこだわって、アンチエイジングに走る人もいるかも
しれませんが、そこには人が近づきたくなるような円みはありません。
老いることによって、自分一人で生きているという我執が薄れ、まろやかな優しい雰囲気が
生じ、自然に人が集まるようになります。
結果として、多くの存在に生かされていことが、目に見える形になって現われているのだと
私は思います。
ただ、その老いた状態こそが、他よりいいと言っているわけではありません。
若い時は、若い時の雰囲気。
壮年であれば、壮年なりの雰囲気。
そして老年になれば、老年の雰囲気。
どれが良い悪いではなく、その時ならではの、それぞれの良さがあるわけです。
ですから若い人は、堂々としているのがいいのです。
若いのに妙にホッコリしている、落ち着いているというのは、それがナチュラルなもの
であれば別ですが、自ら作ったものであるならばやはり不自然です。
それぞれに魅力があるのですから、余計なことをしようとする必要はありません。
余計なことこそ、執着や囚われになりかねません。
一つの人生、二度おいしい、三度おいしい。
今の自分を信じましょう。
目の前の今を刻んでいけば、自然と、なるようになります。
年を取るって、本当に素敵なことですね!
それが、失敗や成功といった大きな波を経験するにつれて、自信に満ちて風格を備えて
いきます。
そして、年老いていくにつれ、円みを帯びた優しい雰囲気へと変わっていきます。
「自信」というのは、文字通り、自らを信じるということです。
これは「自分は『できる』と信じている状態」と取られがちですが、それですと「結果」が
セットになってしまうので、少し違うような気がします。
それよりも、そのまま「自分を信じきっている状態」「今の自分に全てを託している状態」
「全てを委ねている状態」といった方が、しっくりきます。
全てを託しているというのは、過去や未来もなく、今が100%の状態です。
そうなると、先の結果のことなど頭にないわけですから、どのような展開も全てOKに
なります。
一方、「自分は『できる』と信じる」というのは「慢心」や「過信」に繋がりやすくなります。
つまり、実際の自分を冷静に客観視できず、気持ちが先走って身の丈以上の幻想を抱いて
しまっている状態です。
それは文字通り「信じ過ぎている」ということになりますので、焦点が今からズレて
しまっています。
自己暗示の方法というのは、うまくいけばハマりますが、副作用も大きいと思います。
「自信」は、結果として現われる「状態」「心境」です。
ですから、それが現われる前提が刻まれていないのに「自信を持とう」というセリフを
発するのは、中身のないシャボン玉です。
そういう時は「今の自分を受け入れよう」の方が適切だと思います。
つまり、「自信」というのは、そこに我執が入るか否かで、慢心や過信と紙一重
ということです。
自信が伴っていますと、見た目の様子がいかにも堂々としているものです。
「堂々としているから強そうだ」「堂々としているから何かやってくれそうだ」と、
その大きさに信頼感や安心感を抱くわけです。
ただ、この「堂々として見える」というのがまたクセモノです。
ジャンルを問わず、職人であっても、武道であっても、あるいは会社の仕事であっても、
その道を究めていく過程において、例えば「自分はここまで成長した」「ここまで掴んだ」
という思いが、無意識のうちに振る舞いや佇まいに出ることがありますが、禅ではこれを
「悟臭」と呼ぶのだそうです。
まさに、鼻持ちならないといったところでしょう。
本人としてはそれを、堂々とした雰囲気だと履き違えてしまうかもしれません。
でも、それは慢心であり、我執の現われです。
ドンナモンダイという我執の匂いたつような様子を、悟臭と表現したわけです。
溌剌とした明るいエネルギーが出て大きく見える姿と、大きく見せようとして胸を張って
いる姿は、似て非なるものです。
自己顕示欲は他人の目を意識することで生まれ、自尊心は自分という存在への執着に
よって生れます。
そうしたものが無かったとしても、他人との「比較」や、過去の自分との「比較」によって
少しでも優越感が生じてしまうと、悟臭が漂い始めてしまうかもしれません。
結局は、心が目の前の「今」ではなく、あちこち色々なところへ向いてしまうことによって
囚われが一人歩きしだしてしまうのです。
「能力がある、運動ができる・・・それが何なの?」とスルーさせて、そんなことよりも
「今」を無邪気に楽しみきる。そこに集中する。
すると、途端に、鼻持ちならない雰囲気は消えてなくなります。
代わりに、肩の力の抜けた好々爺のような姿が現われます。
それは、威風堂々とした姿には程遠いものですが、そばにいるだけで何だか心が休まる
ほっこりした空気が漂います。
これまた好みの問題ですから、どっちがいいというわけではありません。
でも、遅かれ早かれ、人は体力が落ちてくるとともに、自分一人だけで何でもできると
いう慢心が薄れ、肩の力が抜けて円みを帯びていくものです。
老いるというのは、そういうことだと思います。
なかには若いころの堂々とした姿にこだわって、アンチエイジングに走る人もいるかも
しれませんが、そこには人が近づきたくなるような円みはありません。
老いることによって、自分一人で生きているという我執が薄れ、まろやかな優しい雰囲気が
生じ、自然に人が集まるようになります。
結果として、多くの存在に生かされていことが、目に見える形になって現われているのだと
私は思います。
ただ、その老いた状態こそが、他よりいいと言っているわけではありません。
若い時は、若い時の雰囲気。
壮年であれば、壮年なりの雰囲気。
そして老年になれば、老年の雰囲気。
どれが良い悪いではなく、その時ならではの、それぞれの良さがあるわけです。
ですから若い人は、堂々としているのがいいのです。
若いのに妙にホッコリしている、落ち着いているというのは、それがナチュラルなもの
であれば別ですが、自ら作ったものであるならばやはり不自然です。
それぞれに魅力があるのですから、余計なことをしようとする必要はありません。
余計なことこそ、執着や囚われになりかねません。
一つの人生、二度おいしい、三度おいしい。
今の自分を信じましょう。
目の前の今を刻んでいけば、自然と、なるようになります。
年を取るって、本当に素敵なことですね!