この世のすべては、本来、無色透明のニュートラルなものですが、
それらに、評価や判断という形で、私たちは色づけをしています。
その評価や判断は、他との比較によって生み出されます。
少し真面目な話になってしまいますが、私たちはどうして「比較」
をしてしまうのでしょう。
人間社会が存続するためには、好き勝手のバラバラというわけに
いきませんので、法律や行動規範というものが設けられます。
道を大きくそらさないためには、どうしても目印となるものが
必要となってきます。
私たちは、物心つく前の小さい頃からすでにそういうものに
囲まれてきました。
それ自体は必要なものですから、否定するものではありません。
ただ、それに対する私たちの反応に問題があるわけです。
あくまで目印にとどめておくものなのに、必要以上にそれに囚われ、
縛られてしまった結果、比較という観念を強化させてしまいました。
たとえば、お行儀だったり、勉強だったり、運動だったりと、
何かにつけて比較することが染み付いてしまいました。
褒められたり怒られたり、成功報酬や懲罰を重ねるうちに、
無意識に、善し悪しの判断をするという条件反射が刷り込まれて
しまいました。
そうやって何かにつけて相対比較する癖は、ありとあらゆる場面で
出てしまうようになったわけです。
他人の言動を「良い・悪い」と評価してしまいますし、自分自身の
言動に対しても「良い・悪い」と評価してしまいます。
隣の芝生が青く見えたり、逆に、汚なく見えたりというのは
よくある話です。
あるいは「あのとき違う選択をしていればもっと良かったのに」と
後悔したり、逆に「この選択こそが一番良かったのだ」と満足したり。
でも、すでに触れたとおり、結果というものはあまり意味がなく
私たちは経過を体験するためにこの世に生まれてきました。
今を刻むために生きています。
そうなりますと、刻むこと自体に価値があるわけですから、
どの選択であってもすべて等しいわけです。
どれかが他よりも優れているということはありません。
「いまがサイコー」という表現はある意味セーフですが、
「この選択が他の選択『よりも』良かった」という表現はアウトです。
正しくは、すべてがサイコーなのです。
それならばチャランポランでもいいのかという話になりますが、
実は、べつにそれでもいいのです。
ただ、自分というものが無くてまわりに流されてしまうと、「今」が
散漫になります。心ここにあらずです。
それは、天地の視点から見れば、生きにくい状態に他ならないので、
ハッと我に返るような出来事が起きることになります。
たとえ怠惰な生き方であっても、それに善し悪しの判断をすることは
無意味です。
今を刻んでいるということに価値があるからです。
ただ、目の前の今が一番大事ということを知り、100%そこに心を
向けるようになれば、わざわざ頑張ろうとしなくても、自ずと
意識は集中することになります。
そうすれば、ラクで楽しいというだけのことです。
苦しくてしんどい生き方であっても価値としては同じ。
単に、好みの問題というだけです。
少し話はそれてしまいましたが、良いも悪いもないというのは、
自分だけに限らず、まわりの人たちに対しても同じです。
みんな、今を刻んでいるわけですから、それはそれで全てがOK
なのです。
ですから、他人のことをとやかく言う必要はないのです。
そして、他人から自分のことをとやかく言われる筋合もないわけです。
他人をあれこれ評価するのも無意味ですし、周囲からの評価を気にする
のも無意味です。
やらせとけばいいし、言わせとけばいいのです。
「これでいいのダ」「アレでいいのダ」ということです(笑)
物事に優劣をつけようとする心癖というものは、なかなか根深いもので、
それ以外にも、日常の様々な場面で現れます。
たとえば、朝のヒゲ剃りをしながら今日の仕事のことを考えていたと
しましょう。
これは、今のヒゲ剃りよりも仕事のほうが大事(心配)だと、無意識の
うちに思っている状態です。
一方で、もしこれがお見合いの日の朝ならどうでしょう。
同じヒゲ剃りなのに、ものすごい真剣になるのではないでしょうか。
つまり、私たちは知らず知らずのうちに比較によって行動してしまって
いるわけです。
でも「今」の瞬間よりも大事なことなどありません。
ヒゲ剃りそのものが大事なのではなく、今の瞬間に心を向けることが
大事なのです。
つまり結果として、その瞬間は、仕事のことよりもヒゲ剃りに集中する
ことのほうが重要だということです。
あまり適切でないかもしれませんが、もしも優劣の比較をしたいならば、
「過去」や「未来」よりも「今」を優先させるべきなのです。
ですから決して、仕事のことを考えるなということではありません。
もしも仕事のことを考えるのならば、他の何かをしながらではなく、
100%の心を向けて考えるということです。
禅の公案は、固定観念や執着を壊すためのものですが、脳を絞り出す
ようにして無理難題の答えを考えるのは「今に100%集中」するための
訓練という意味合いもあるのではないかと思います。
そして、優劣が無いということはすべてがニュートラルということです。
「これが正解」「あれは間違い」ということはありません。
「これも正解」「あれも正解」ということです。
唯一絶対の答えなどありません。
唯一絶対の真理があるとすれば、「唯一絶対なんて無い」というのが
それでしょう(笑)
すべてが正解。
オールOK。
だからこそ、この世界には、これだけ多くの生命が溢れているのだと
思います。
それらに、評価や判断という形で、私たちは色づけをしています。
その評価や判断は、他との比較によって生み出されます。
少し真面目な話になってしまいますが、私たちはどうして「比較」
をしてしまうのでしょう。
人間社会が存続するためには、好き勝手のバラバラというわけに
いきませんので、法律や行動規範というものが設けられます。
道を大きくそらさないためには、どうしても目印となるものが
必要となってきます。
私たちは、物心つく前の小さい頃からすでにそういうものに
囲まれてきました。
それ自体は必要なものですから、否定するものではありません。
ただ、それに対する私たちの反応に問題があるわけです。
あくまで目印にとどめておくものなのに、必要以上にそれに囚われ、
縛られてしまった結果、比較という観念を強化させてしまいました。
たとえば、お行儀だったり、勉強だったり、運動だったりと、
何かにつけて比較することが染み付いてしまいました。
褒められたり怒られたり、成功報酬や懲罰を重ねるうちに、
無意識に、善し悪しの判断をするという条件反射が刷り込まれて
しまいました。
そうやって何かにつけて相対比較する癖は、ありとあらゆる場面で
出てしまうようになったわけです。
他人の言動を「良い・悪い」と評価してしまいますし、自分自身の
言動に対しても「良い・悪い」と評価してしまいます。
隣の芝生が青く見えたり、逆に、汚なく見えたりというのは
よくある話です。
あるいは「あのとき違う選択をしていればもっと良かったのに」と
後悔したり、逆に「この選択こそが一番良かったのだ」と満足したり。
でも、すでに触れたとおり、結果というものはあまり意味がなく
私たちは経過を体験するためにこの世に生まれてきました。
今を刻むために生きています。
そうなりますと、刻むこと自体に価値があるわけですから、
どの選択であってもすべて等しいわけです。
どれかが他よりも優れているということはありません。
「いまがサイコー」という表現はある意味セーフですが、
「この選択が他の選択『よりも』良かった」という表現はアウトです。
正しくは、すべてがサイコーなのです。
それならばチャランポランでもいいのかという話になりますが、
実は、べつにそれでもいいのです。
ただ、自分というものが無くてまわりに流されてしまうと、「今」が
散漫になります。心ここにあらずです。
それは、天地の視点から見れば、生きにくい状態に他ならないので、
ハッと我に返るような出来事が起きることになります。
たとえ怠惰な生き方であっても、それに善し悪しの判断をすることは
無意味です。
今を刻んでいるということに価値があるからです。
ただ、目の前の今が一番大事ということを知り、100%そこに心を
向けるようになれば、わざわざ頑張ろうとしなくても、自ずと
意識は集中することになります。
そうすれば、ラクで楽しいというだけのことです。
苦しくてしんどい生き方であっても価値としては同じ。
単に、好みの問題というだけです。
少し話はそれてしまいましたが、良いも悪いもないというのは、
自分だけに限らず、まわりの人たちに対しても同じです。
みんな、今を刻んでいるわけですから、それはそれで全てがOK
なのです。
ですから、他人のことをとやかく言う必要はないのです。
そして、他人から自分のことをとやかく言われる筋合もないわけです。
他人をあれこれ評価するのも無意味ですし、周囲からの評価を気にする
のも無意味です。
やらせとけばいいし、言わせとけばいいのです。
「これでいいのダ」「アレでいいのダ」ということです(笑)
物事に優劣をつけようとする心癖というものは、なかなか根深いもので、
それ以外にも、日常の様々な場面で現れます。
たとえば、朝のヒゲ剃りをしながら今日の仕事のことを考えていたと
しましょう。
これは、今のヒゲ剃りよりも仕事のほうが大事(心配)だと、無意識の
うちに思っている状態です。
一方で、もしこれがお見合いの日の朝ならどうでしょう。
同じヒゲ剃りなのに、ものすごい真剣になるのではないでしょうか。
つまり、私たちは知らず知らずのうちに比較によって行動してしまって
いるわけです。
でも「今」の瞬間よりも大事なことなどありません。
ヒゲ剃りそのものが大事なのではなく、今の瞬間に心を向けることが
大事なのです。
つまり結果として、その瞬間は、仕事のことよりもヒゲ剃りに集中する
ことのほうが重要だということです。
あまり適切でないかもしれませんが、もしも優劣の比較をしたいならば、
「過去」や「未来」よりも「今」を優先させるべきなのです。
ですから決して、仕事のことを考えるなということではありません。
もしも仕事のことを考えるのならば、他の何かをしながらではなく、
100%の心を向けて考えるということです。
禅の公案は、固定観念や執着を壊すためのものですが、脳を絞り出す
ようにして無理難題の答えを考えるのは「今に100%集中」するための
訓練という意味合いもあるのではないかと思います。
そして、優劣が無いということはすべてがニュートラルということです。
「これが正解」「あれは間違い」ということはありません。
「これも正解」「あれも正解」ということです。
唯一絶対の答えなどありません。
唯一絶対の真理があるとすれば、「唯一絶対なんて無い」というのが
それでしょう(笑)
すべてが正解。
オールOK。
だからこそ、この世界には、これだけ多くの生命が溢れているのだと
思います。